Subject:
77篇「火曜日の聖書研究」
From:
"+ShinyaKanno" <shinya@kanno.com>
Date:
2005/03/29 10:49
To:
"Saiwainet" <saiwainet@yahoogroups.jp>

+ちゃんくんです。

9節にセラがあるのに、10節にそしてがある。ここはどのように考えればよいのか。
7節は6節の最後の私のたましいは問いかけるの内容になっているのではないかと考えることもできる。
10節の内容を見るときに、詩人は右の手による救いを求めていることがわかる。

10節は前のところにつながっていると見るから、私の弱いのはということになる。
三年前の構造では10節が構造の真ん中だと言っていた。
15節のヤコブとヨセフの子らと20節のモーセとアロンは並行している。

16-19節は出エジプトの神様の奇しいみわざであるということの連想はよい。
1節の私の声と18節の雷の声はヘブル語でも同じことばである。
今回の構造は1-10節の11-20節の前半と後半にわけた。

普通は私は忘れちゃうけれども、神様は忘れないという詩篇のほうが多い。
しかし、今回は反対で、神様は忘れちゃたけれども、私は忘れないという詩篇である。
2節の私のたましいは慰めを拒んだというのはヤコブのストーリーを思い出す。

4節の私のまぶたを閉じさせないというのは、神様が詩人のまぶたを手でつかんでいるということである。
9節のいつくしみということばはハンナという名前と同じ意味である。
このいつくしみはたぶん善ということばと同じいつくしみではないだろう。

2-3節と5-6節が並行しているとすれば、1節と4節が並行しているということになるのか。
1節は声をあげて叫ぶで、4節は何も言えないということで並行していると考えることもできる。
しかし、10節にそのとき私は言ったという言い方が出てくる。

7-9節の中には何かの小さい構造があるのではないか。
7-9節の言い方は覚えてしまい、この段落は途中できれるはずはないだろう。
なぜ10節は私の弱いのはと訳されているのか。別の訳では私の祈りとも訳される。

4節と7-9節が並行しているのではないかとも考えることができる。
1節、2-3節で詩人は神様に叫んでいる。しかし4節で神様は答えてくださらない。
5-6節でまた詩人は神様を呼んでいるが、7ー9節で答えてくださらない。

10節でしかし、あなたは私の祈りにぜったいに答えてくださるということを言っている。
詩人が神様に叫んでいる。その叫びの内容は神様のなされた昔のことに訴えているということである。

-------------------------------------
+審也@カンノファミリー
 mailto:shinya@kanno.com
-------------------------------------