+ちゃんくんです。
1-10節の中で詩人はなぜ、神様は私のことを忘れてしまったのかと言っている。
先週の詩篇では敵を眠らせていたが、77篇では私が眠らないようにしている。
最初は1節と4節はつながっているのではないかと考えた。
しかし、もっとよく見ると1節と10節が並行していることに気がつく。
2-3節と5-6節の並行はわかった。あと残っているのは4節と7-9節である。
このように昨日は1-10節(前半)について考えてきた。今度は11-20節はどうなっているのか。
15節と20節が並行していることはわかる。(神の手、人の手、ご自分の民、人の名前、贖う、導く)
ほかに並行しているとわかるのは13節と19節である。(ここは道について話されている)
16節は水について話されていて、17ー18節は雷雲で、19節はまた水である。
1-10節は個人的なみわざで11-20節は民に行われたみわざとして見ることもできる。
この詩篇のなかで道とは何ですかという質問に対してまだ答えられるようではない。
出エジプトのストーリーがあって後にみわざと言えば出エジプトということになる。
このストーリーは普通にただ勝ったというわけではないからである。
出エジプトのストーリーはイスラエルが苦しみの中から神様に向かい声を上げるとというところからはじまる。
神様はイスラエルの嘆きを聞いてくださり、アブラハム、イサク、ヤコブと結ばれた契約を思い起こされた。
出エジプトの思い起こすと77篇のことばは同じである。
ノアを覚えてくださったということばとも同じである。(ザカール=ヘブル語)
出エジプト15章では77篇とは違い雲ではなく、住民がふるえている。
ここで、雲や雷雲は国々の民、住民をあらわしていることがわかる。
出エジプトをしたイスラエルが向かっているところは神様の聖なる住まいである。
神様の道は聖であると言っているのは、その道の行き着くところはきよいということと同じ事である。
77篇の中に出てくる昔の日々は出エジプトを思い出さなければならない。
士師記の中でもイスラエルは神様のなさったみわざを忘れて、神様から離れた。
神様が私たちを愛してくださったことに対して、私たちは神様のなさったみわざを覚える。
これが、神様の愛に対する応答である。(私たちがみわざをなすということではない)
77篇には神様が覚えてくださったということは出てこない。
2節の私は慰めを拒んだというのは神様に与えられる慰めのことではないだろう。
昨日ちゃんくんがこのことについて研究したときにも、人の慰めはいらないと預言書で言っている。
イスラエルは記憶の民である。やたらに歴史を覚えなさいと言われている。
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