+ちゃんくんです。
78篇は詩篇の中で二番目に長いが、内容はむずかしくはない。
内容はイスラエルの歴史について書かれている。
前回の構造を見たが、それはもっともらくしくまとめられていて、それらしかった。
この構造を考える前に、三年前の人たちは78篇には大きな二つの罪があると言っていた。
荒野の罪は欲望。荒野では食べ物がない、飲み物がないというような貧しさの問題であると言っていた。
カナンは弱さの問題があると言う。カナンの罪は偶像礼拝である。
この考え方はよいとは思うが、ちょっとむりがあるきもする。
たぶん今回の構造は9-39節あたりとそこから72節の前半、後半にわかれるのではないか。
1-8節は構造を考えるときには別にして考えてもよいだろう。
出エジプト、荒野の四十年間、カナンは一連のストーリーである。
最初は9-72節の細かい構造を見ようとしたが、1-8節が手薄になるので、そこの構造を見た。
78篇の1節は聞くということばでははじまっているが、申命記のシャマではない。
3節の聞くということばは申命記と同じシャマである。
いつも叫んだら聞いてくださるという神様を持っているのはイスラエルしかいない。
神様の与える命令はあれをやりなさい、これをやりなさいということではない。
神様の命令は神様のやったことを忘れてはならないということである。
このことが一番である。このことをまずしたうえで、安息日を守ったりする。
78篇の歌を歌えば、すぐに思い出されるが、それのもとは申命記にある。
神様に命令が与えられているのは、神様を知るためである。
78篇は第三巻の中の一連の詩篇の一つである。(今回の羊飼いはダビデである)
羊飼いである神様は民を羊の群のようにして、神様の聖なる住まいに導いて行ってくださった。
先週もやったように、77篇は78篇に似ている。この二つの詩篇は隣にある。
神様はただ命令を与えて、私たちにだけやれやれとは言わない。
神様は昔私たちの先祖たちにみわざを行ってくださったことを忘れてはならない。
覚えているのであれば、神様の命令を喜んで守ることができる。
羊たちは聖なるグループにいれられている。見た限りではくさくて、うるさい。
神様の声に聞き従うかどうかで、羊はきよいか、汚れか区別される。(ヨハネ10:2-5)
使徒の働きを読んでいてわかるように、説教があると、いつも歴史が話がある。
今日の通読の箇所の使徒13章でも、パウロは説教でイスラエルの歴史を話している。
キリストの十字架と復活は私たちの生活の中にもあるはずである。
自分たちの生活の中に十字架と復活があるとわかるならば、良い牧者であるキリストに近づくことができる。
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+審也@カンノファミリー
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