Subject:
詩篇82篇「水曜日の聖書研究」
From:
"+ShinyaKanno" <shinya@kanno.com>
Date:
2005/05/11 11:12
To:
"Saiwainet" <saiwainet@yahoogroups.jp>

+ちゃんくんです。

82篇の5節で神々と言われている人たちは悟らない。しかし、今日の通読の箇所であった詩篇139篇の人は彼らとは反対に悟っている。
139篇の詩人は自分が弱い者、貧しい者であることを認めている。
申命記、レビ記で言われているみなしご、やもめの取り扱い方に従って、ちゃんとさばきをしていない。(82篇の神々たち)

1-2節と6-8節にして、中をわけた理由の一つは1節に神々があって、6節にも神々があったからだ。
一回の詩篇の中にこんなに出てくるのはほとんどない。(弱、独、悩、乏、弱、貧)

82篇の中で彼らは神々ではないとは言ってない。ほんとはさばきつかさである。
それなのに、正しくさばかず、不正なさばきを行っている。

ヨハネによる福音書10:34節で、82:6節が引用されている。
ヨハネ10章でつかわれている6節の位置づけがあまりよくわからない。

6節の言い方を皮肉で言っていると考える人もいるだろう。
サタンはこのような言い方をつかって、私たちを責めてくる。
もし、この言い方が皮肉であるのなら、ヨハネの引用は成り立たなくなってしまう。

7節の「にもかかわらず」はヘブル語では「しかし」という言い方になっている。
また、7節は「人」ではなくて、「アダム」という言い方にヘブル語ではなっている。

今回詩篇82篇を学んで、無知=不正であるというところにいきつきたい。
無知と不正の反対は神様を知っていると正しくさばくということである。
神様を知っていると正しくさばくのほうは私たちがわのことを言っている。
もし、神様がわであったら、全知と正しくさばきをするということになる。

主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである。(箴言9:10)

神々は神様がさばき主であることを知らない。また最後のさばきを悟らない。
アダムも、神様は知らないと思って、木の実を食べた。
アダムはサタンによって、この木の実を食べたときに、神になれるということを言われた。

王様であるダビデは、神様に悩む者、貧しい者ですと言う。
悩む者と言ったときに、何か悩みごとのある人という意味もあるけれども、それだけではない。
敵に攻撃されているという悩む者のことをさして言っている。

第三巻の中で82篇はどのような位置づけになっているのか。

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+審也@カンノファミリー
 mailto:shinya@kanno.com
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