Subject:
詩篇83篇「水曜日の聖書研究」
From:
"+ShinyaKanno" <shinya@kanno.com>
Date:
2005/05/18 11:14
To:
"Saiwainet" <saiwainet@yahoogroups.jp>

+ちゃんくんです。

9-11節の人たちはみな一人ではこなくて、二人ずつ来る。(シセラとヤビン、オレブとゼエブ、ゼバフとツァルムナ)
シセラとヤビンはデボラとバラクの戦いの時である。

オレブとゼエブとゼバフとツァルムナはみなギデオンと戦った。
シセラとヤビンのときは良い人のほうも二人である。(デボラとバラク)
敵はみな犬のようであるので、一匹、二匹と数える。

シセラのような人々はみなサタンのしもべたちである。
アブラハムの戦いの時は王たちが五人いた。
二人のグループで責めてくるのの最後はヘロデとピラトである。

彼らは最初は敵対しあっていた。しかし逆らうときになったら一つになった。(ルカ23:12)
パリサイ人とサドカイ人も敵対しあっている。
キリストを殺すときには仲良くなったようだが、また使徒の時代に敵対している。

シセラとヤビン、オレブとゼエブ、ゼバフとツァルムナがイスラエルに責めてきたのは、イスラエルが最初に神様に対する罪のためである。
この出来事があったのはカナンである。カナンは神様の牧場である。
パロから救われたことによって、イスラエルという国ができた。

まだ、イスラエルがエジプトにいた時代は、国でもなく、自分たちの所有の地を持っていなかった。
出エジプトの神様の奇しいみわざによって、イスラエルの名前ができた。
イスラエルという名前の意味は戦うである。

最初はヤコブ(かかと)であったのが、主と戦ってイスラエルという名前を与えられた。
今は、イスラエルという名前では呼ばない。クリスチャンという名前がある。
宝の民という言い方は出エジプト記19章5節と、申命記7章6節、14章2節、26章18節と、詩篇135:4節と、マラキ3章17節に書いてある。

13節はまさしく詩篇1篇の悪者に対するさばきで、心を一つにして逆らうというのは詩篇2篇の王たちの行いである。
2篇との違いは、83篇には民についても出てくるけれども2篇には民については特には書かれていない。
第三巻には王様が救われますようにというような祈りはない。

首が切り落とされるということと、吹き飛ばされるということはどちらとも恥である。
83篇の中で恥の反対は名前である。聖書全体の中であったら誉れということができる。
手と足が切れられても生きていることはできる。しかし頭が切られた死んでしまう。

1篇の中で吹き飛ばされるの反対は実を結ぶということである。
ゼエブは自分は実を結んでいると思っていた。オレブは自分は岩だと思っていた。
カナン人はイスラエルを見たときにこわがった。それなのにイスラエルは自滅した。

モーセもヨシュアも戦いの時に民にずっと自滅するなと言う。
自分だけではできないと思っているから自滅する。自分に力があると思っているから滅びる。
神様が戦ってくださるということを知っていて、また神様が力を与えてくださるということを知っているのならば勝利を得る。

自滅しちゃう人はゴリアテのような人になりたいと思っている。
自滅する人と滅びる人とは同じ人である。
自分たちが力を持つ勝てると思っている。

今日はさばきによって主を知るというストーリーをさがす。
さばきが行われているときに神様を知るということはできる。
そのさばかれた人が知ることもあるが、そのまわりの多くの人は知ることはできる。

悔い改める時間は今でも、神様から与えられている。

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+審也@カンノファミリー
 mailto:shinya@kanno.com
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