Subject:
黙示録にある七つの教会の手紙について
From:
"+ShinyaKanno" <shinya@kanno.com>
Date:
2005/05/19 12:09
To:
"Saiwainet" <saiwainet@yahoogroups.jp>

+ちゃんくんです。

黙示録にあるアジヤの教会にあてた手紙について見ました。

手紙はそれぞれいつかの時代をさして書かれている。
エペソの手紙はアダムの時代、スミルナの手紙は出エジプトの時代、
ペルガモの手紙は直接名前が書かれているのですぐにわかる、民数記のバラムとバラクの時代。
テアテラも同じように直接名前が書かれている。列王記のイゼベルの時代。

サルデスはその衣を汚されていない者が幾人かいるというところからわかるように。
エリヤとエリシャのことである。神に忠実な七千人のものがまだいると主は言われた。
エリヤは神に忠実なのは私たちだけなのかと言ったときに、そのような答えがきた。

フィラデルフィアは3:7節のところにダビデのかぎという言い方が出てくる。
だからといってダビデの時代だというわけではない。
ダビデのかぎという言い方はイザヤ書22:22節にある。
これはまさしく捕囚後の時代のことをあらわしている。

サルデスにあてて書かれた手紙は捕囚前のことを話していた。
しかし、フィラデルフィアにあてて書かれた手紙は捕囚後の話である。

ラオデキヤの手紙を読めばわかるように、20節のところにキリストがたとえばなしで話されたことが書かれている。
だから、だいたいこの手紙はキリストがこの世で働かれたときのことをさしている。

手紙があとにいくにつれてむずかしくなってくる。
すべてがちゃんと手紙に書かれているように成就していったわけでもない。
例えば、2:2節のようなことはアダムはしていない。

黙示録1:20節に書かれているように、七つの星は七つの教会の長老たちのことで、
七つの燭台は七つの教会のことをあらわしている。
だから、2:5節で燭台をその場所から取り外すといっているのは、
その教会はちゃんとした教会ではなくなってしまうということである。

2:10節の10日のの間苦しみを受けるというのは、エジプトでの10のわざわいをあらわしている。
実際にイスラエルが10日間苦しみを受けたというわけではない。

耳のある者は聞きなさいというのと、勝利をえるものはというのはすべての七つの教会にあてられた手紙に書かれている。

最初の方の手紙では耳のあるものが最初で、勝利をえるものはあとであったが、
最後のほうの手紙になってくると耳のあるものがあとで、勝利えるものが最初になっている。

※質問:2章13節の私の忠実な証人アンテパスという人はほんとにいたのか。
     もしいたとしても、なぜ聖書のここ以外の箇所に出てこないのか?

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+審也@カンノファミリー
 mailto:shinya@kanno.com
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