Subject:
詩篇83篇「金曜日の聖書研究」
From:
"+ShinyaKanno" <shinya@kanno.com>
Date:
2005/05/20 9:33
To:
"Saiwainet" <saiwainet@yahoogroups.jp>

+ちゃんくんです。

私たちはよくシセラとヤビン、オレブとゼエブ、ゼバフとツァルムナの歴史を知らない。
彼らはみな二人組で正しい者のところに責めてくる。
心を一つにして逆らうという言い方は5節にあるが、この言い方を聞くと2篇を思い出す。

また、13節のわらのように吹き飛ばすというのは詩篇1篇を連想する。
12節で敵は牧場をだめにしようと言っていたら、13節で自分たちが牧場の反対になってしまった。
かれあざみというのは牧場の反対である。

神様はアダムに実を結べと命令された。太陽が働く前から神様はよいと宣言された。
84篇では吹き飛ばされるの反対のテーマが出てくる。神様の住まいは84篇の中で大庭と言われている。
民に対して攻撃をしかけてくることは、神様に攻撃をしていることと同じである。

一つになって神様に対して攻撃するというのの一番最初はと聞いたときに、アダムとエバという答えが出た。
アダムとエバという答えはちょっと違う。こうすると、一番最初はバベルの塔である。
この前に一つになって逆らうというのがなかったわけではないだろう。

ただ、聖書の中にそのことが書かれていないだけである。
このようなペアーの最後の人たちはヘロデとピラトである。
彼らは最初は敵対しあっていた。しかし、仲良くなった。それはルカ福音書23:12節に書いてある。

ヘロデとピラトは詩篇2篇の成就をしたと使徒行伝4:25節からに書いてある。
だからと言って、一つになるということが悪いことではない。歴史の目的は教会が一つになることである。
使徒行伝4章にはヘロデとピラトの二人組だけではなく、よい二人組がいる。それはペテロとヨハネである。

4章24、31節で、ペテロとヨハネのことばを聞いた人は心を一つにしたということが書かれている。
4章のポイントは人々は御霊によって一つとなっているということである。
人々に御霊が注がれたのなら、もうだれにも主を知れとは言わない。
御霊が注がれることは主を知るということの成就である。

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+審也@カンノファミリー
 mailto:shinya@kanno.com
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