Subject:
詩篇85篇「木曜日の聖書研究」
From:
"+ShinyaKanno" <shinya@kanno.com>
Date:
2005/06/02 11:08
To:
"Saiwainet" <saiwainet@yahoogroups.jp>

+ちゃんくんです。

昨日は1-6節の中で救いというのは御怒りをやめるということを学んだ。
それに対して、7-13節では救いは恵みと平和があるということであった。
恵みと平和が互いに出会うと救いになる。

1-6節の中はきれいにABCCBAになっている。
1節と6節、2節と5節、3節と4節の並行である。
10-13節の中にはずっと義ということばが出てくる。

10節、11節、13節は直接義ということばが出てくるが、12節にもあると言えばある。
12節の良いということばは善と同じことばで、さばきにおいて義と善は関係している。
1-6節がキアスマスになっていたように、7-13節もキアスマスなのか。

そうなるか考えてみたけれども、そうではなさそうである。1-6節のようにははっきりしていない。
7-13節をむりやりキアスマスにしようと思えば、できる。
そうすると、10-13節の意味がわからなくなってしまう。

救いと言ったときに、罪の赦しだけではない。命の祝福が与えられることも含まれている。
構造を考えるときに、前半と後半にわけて考えるというのははっきりしている。
私たちは怒りから戻されるときに、喜びが与えられる。

怒りの方は十字架で、喜びは復活をあらわしている。
いけにえをささげたあとは神さまの御前で平和になれる。
怒りが一番よくあらわされているのは黙示録である。

黙示録の中で一番よく言われているテーマは、キリストは聖徒たちとともにいるということである。
救いと言ったときに、十字架と復活は含まれている。この二つを引き離すことはできない。
片側だけを言っても、もう片側のほうのことも言われていることになる。
例えば、十字架といったときには、復活と昇天も含まれている。

キリストは、十字架で御父からさばきを受けて、死んで終わったのではない。
三日目によみがえって、昇天し、御父の右の座につかれた。
それで、今に至るまで、この世を自分のものとして、支配しておられる。

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+審也@カンノファミリー
 mailto:shinya@kanno.com
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