Subject:
Fw: 85篇と90篇の対比
From:
"+ShinyaKanno" <shinya@kanno.com>
Date:
2005/06/02 11:11
To:
"Saiwainet" <saiwainet@yahoogroups.jp>


----- Original Message ----- From: "Miwaza J. Kanno" <miwaza@miwaza.com>
To: <shinya@kanno.com>
Sent: Thursday, June 02, 2005 9:55 AM
Subject: (件名なし)


みーちゃんです。

詩篇85篇と詩篇90篇を一緒に見てみました。

■怒りについて:

詩篇85篇の一つの大きなポイントは、民の罪に対する神様の怒りですが、その
怒りについてもっと具体的に書かれている詩篇は、詩篇90篇です。この90篇
からもわかるように、神様が民(詩人)に怒られると、彼らは怖じ惑ってしまい
ます。

また、具体的にこの怒りというのは、民の不義、つまり罪を御前に置かれるとい
うことです。なぜなら、神様は”義(詩篇85篇)”であるからです。

この神様に対して、私たちが哀れみを求めるというのは、神様がもし私たちに怒
り続けるならば、私たちは怒りに沈み死んでしまうからです。なぜなら、”私た
ちの齢は七十年。健やかであっても八十年。(詩篇90節10節)”だからです。

■主の住まいの話:

詩篇90篇は神様の怒りの話だけではなく、最初のところで、主の住まいの話が
でてきます。なぜ、これが詩篇85篇とつながっているかと言うと、詩篇85篇
に出てくる、”罪を犯す”ということが、元々いるべきである主の家から私たち
は、落ちたという事だからです。

私たちが罪を犯すということについて考えるときに、私たちが間違ってはいけな
いのは、私たちが普通の状態から堕落して、落ちたという事ではなく、私たちは
元々、神様と共に住んでいるという状態にいたのに、堕落して、落ちてしまった
という事であり、私たちが救われるというのは、もう一度神様の住まいに戻され
るという事です。

もし、私たちが普通の状態から落ちて、いきなり神様の住まいに上げられたとい
う事ならば、変な事になってしまいます。ですから、このことを考えるときに、
私たちはある意味で”天(御国)”と”地獄”だけを見なければいけません。なぜな
ら、それらの途中というものはないからです。

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