Subject:
詩篇87篇 生まれる(将)
From:
Shou Itou
Date:
2005/06/14 15:34
To:
"+saiwai.net" <saiwainet@yahoogroups.jp>

こんにちは、+イトウショウです。

生まれることについて見ました。

私たちはアダムが罪を犯したために罪人としてこの世に生まれてくることは私た
ちは周知の事実である。生まれるということを聞くと私たちは、子供が生まれる
ということを等を最初に考えるが、詩篇87篇の生まれるという言葉の使い方はあ
まりそうではないように見える。何故ならば、生まれるという言葉は単なる個人
ではなく、国について使われているからである、主が国々をシオンで生まれた者
としてわざわざ登録してくださるということが書かれているからである。

生まれるという言い方は、人がクリスチャンになるという意味も含まれる。旧約
聖書の割礼の儀式、新約聖書のバプテスマの儀式はそれを表す儀式である。割礼
は、自分が血を流すことによって象徴的に死んで、神にある民として生まれ変わ
る意味を持ち、バプテスマも同じものではないが、同じ意味を持っている。バプ
テスマにおいて、私たちの罪は決定的に取り除かれるが、それでも私たちは罪を
犯してしまうので、漸進的に自分たちの罪を悔い改めていかなければならない。
私たちは毎週の聖餐式において、象徴的に死んで生きていることを自覚しなけれ
ばならない。

割礼もしくはバプテスマを受けた者は神の民としてそのいのちの書に名が書き記
されるが、それは消されてしまう場合もある。それは、その者の行いが自分の受
けた儀式の意味と相反する場合である。その儀式を受けた者は神についてすばら
しいことを証しする義務を負っているが、例えばキリストの時代のパリサイ人達
はその義務を全うしなかった。

バプテスマを受けた者には心の中から神の御言葉の泉がわき出る。わたしたちは
その泉を独占せずに、他の人々と共有しなければならない。

-- Shou Itou E-Mail: shou_itou@parkcity.ne.jp