+ちゃんくんです。
今日は聖書研究の中で友達が遠いというテーマは何なのかを見る。
キーとセラを無視しなくてもちゃんとした構造はできる。それは昨日みんなで考えた構造である。
だれでも、読めば四つの大切な話があることに気がつく。このテーマを頭にいれて構造を考える。
私は神様に助けを求めて叫んでいるというのがAで、穴にいるということがBである。
神様が私に対して怒っているというのはCで、友達が遠く離れているというテーマがDである。
私は神様に助けを求めて叫んでいるというのが三つあるので、構造を三つにわける人が多い。
穴に入っているストーリーを見るときにほとんどは正しいゆえに入れられている。
神様に対して罪を犯して、神様が怒って穴に入れられているストーリーはほとんどない。
ヨブの友達は罪を犯して、神様が怒っているからこのような状態になっていると言う。
普通は神様の怒りにより穴に入っている。
聖書には普通ではない穴のストーリーがあるのですごく目立つ。
ある国が戦っていて、負けそうになると同盟を結んでいる国々に助けを求める。
しかし、他の国々は負けそうな国から離れていく。
もしその中の国がうまくいっているとその国にくっついていく。
ABCDであると言えばそうだが、ABABだとも言える。
穴と友達が遠いということは同じで、叫ぶことと神様が怒っていることは同じである。
味方がいればまだがんばることはできるが、味方がだれもいないならば死んでしまう。
友達が遠いというのは問題の一番よくあらわれているところである。
神様が怒っていると教会が遠くなり、共に苦しみをわかちあえる人がいない。
友達とは兄弟、父母、妻、夫、教会のことである。
キリストの十字架のときに、弟子たちまたユダヤ人たちはキリストを裏切った。
アダムは自分の妻であるエバが穴に落ちるままにしておいた。
カインは自分の兄弟であるアベルを穴に落とした。
親が怒っているときに、神様が怒っていることを感じる。
親との関係が離れているときには、神様との関係も遠く離れている。
だから、神様が怒りをやめてくだされば、友が遠くにいることもなくなる。
穴にいるときは死で、山にいるときはいのちである。
今週の詩篇にはいのちの話が書かれていない。だから苦しい。
けれども、いのちが絶対に与えられることはわかっている。
一人で御国にいても、それは穴にいるのと同じである。
穴にいるということを神様に訴えたら、いのちが絶対に与えられることはわかっている。
人に穴に落とされた人でも、自分から穴に落ちた人でも、神様に信頼しているかが問われている。
詩篇の中で私は罪を犯してしまいましたと祈る、祈りはぜんぜんない。
とにかく神様に私は今苦しい状態にいますということを訴える。
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+審也@カンノファミリー
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