+ちゃんくんです。
89篇は長い詩篇だったので、全体を把握するのがむずかしくて、だから、構造を考えるのもむずかしかった。
この詩篇は長いので、たくさん同じことばが、いろいろなところで繰り返されている。
89篇の全体が長くても、これはダビデの求めに対する答えであるということはわかる。
ダビデの求めていることとは、メサイアがとこしえまでも堅くたてられることである。
89篇はダビデがそしりを受けているというテーマで終わる。
52節は毎巻の最後についている決まった言い方であるから別である。
ダビデがそしりを受けている状態の反対は15節にある。
義のために迫害される者は幸いである。その人に対する報いは大きい。
この言い方は山上の説教のマタイによる福音書5:11-12節にある。
だれかが病気になって、それがただいやされるだけでは、神様の栄光にはつながらない。
天の御国は栄光に満ちている場所である。
マタイによる福音書5章の箇所が出てきたのは、通読をしていたからである。
山上の説教のマタイによる福音書5章は聖書の中で一番幸いな箇所である。幸いが八回も出てくる。
マタイによる福音書6章の前半は求めるべきものについて話している。
そして、6章の後半ではその求めに対する報いはぜったいに与えられますということを言っている。
聖徒たちの良い行いは御父の栄光を現すことになる。
89篇の中で御父の栄光はダビデの王座がとこしえまでも堅くたてられるということであらわされている。
恵みと真実は王様ととこしえまでもともにいる。
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+審也@カンノファミリー
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