+ちゃんくんです。
全体は大きくわけて四つにわけることに昨日の段階ではなっている。
1-2節と3-10節を読んだときに創造のストーリーを思い出す。
帰ってきて下さいという言い方は住まいのことをあらわしている。
Cの内容をください神様にたのむと、Bの内容を知る。
Dの内容をくださいと神様に願うと、Aを神様からもらう。
Aのことを知っているので、Dについて神にたのむ。
Bを知っているからCを悟ることができる。
私の手のわざを確かなものにすると、はかないものではなくなり、とこしえになる。
Cを知ることはDのいのちである、この言い方は箴言3:18節にある。
神様こそ創造主であることを悟ることと、最後の審き主であることを悟ることは同じである。
三年前の構造とはぜんぜん違う。前回の構造はキアスマスであった。
今回の構造のほうが、忠実に、こまかいところまで見ることができる。
むかしは、キアスマスといったときに、真ん中がいっこしかなかった。
しかし、今はキアスマスというときに、ABABかABBAのことを言う。
最近はこの二つのパターンにおいて構造を考えている。
第三巻の終わりの89:46-48節によく第三巻の中で位置づけのわからないものが出てくる。
第四巻はそれについて説明するところから始まる。
90篇はなぜ、神の人モーセの祈りという題がつけられている。
自分は百二十歳まで生きたのに、なぜ齢は七十年、八十年と言っているのか。
八十歳というのはモーセがイスラエルを導いてエジプトを出たところである。
詩篇39:7節で私の望み、それはあなたですということを言っている。
福音書のキリストのたとえの中で、金持ちがあしたやってやろうと言っていたら、死んでしまったという話がある。
その金持ちは90篇のような人の齢は短いということを悟っていないからである。
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+審也@カンノファミリー
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