+ちゃんくんです。
1-2節と3-10節は契也の研究によると創造の話であることがわかる。
3節の人の子らよ。帰れという言い方は、人よ死ねということである。
契也のさがした帰るということばは聖書の中に900回も出てくる、普通のことばである。
みーこはヨブ記の通読の箇所に人の齢について出てきたので、そこを見た。
90篇2節のところをヨブ記42:1-6節で長く言っている。これがヨブの解決である。
ヨブは神様がすべてを行うことを知っているので信頼している。
しかし、ヨブは神様が愛を持ってこのことをされていることを知らなかった。
ヨブはこの事件があったのちに、彼のすべての持ち物は二倍になった。
ヨブ記を読んでいるとだいたいヨブにこの事件がおこったのは70歳ぐらいであるのではないかということが考えられる。
それで、その事件があったあとに70歳の二倍を生きた。
詩篇90篇と73篇の解決になっているところは同じである。
しかし、内容が違う。73篇は高ぶっていたということで、90篇は私はちりにすぎないということである。
これはくーにーが神であるということについて研究したときに気がついたことである。
モーセは謙遜な、私はちりにすぎないものですということを認めている人である。
この人だけが神様の顔を見て、しゃべることができた。
モーセが謙遜な人であるということは民数記12:3節に書かれている。
第四巻を一言であらわすとさばきということになる。
詩篇90篇の詩人は主の日がどのような日か、またいつくるかを知っている。
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+審也@カンノファミリー
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