+ちゃんくんです。
詩篇90篇は完結していて、すごくわかりやすい詩篇である。
初心者の人でもこの詩篇を読んでなるほどと思うことができる。
詩篇90篇を考えるときに、1-2節が忘れられやすい。
3節と13節の帰るということばの並行はすごく目立つ。
普通は構造を考えるときには全体は大きく分けて3つにする。
しかし、今回は11-12節を別にして全体を大きく分けて4つにして構造を考えた。
1-2節と3-10節のところは神様の御手のわざである創造の話である。
しかし、11-12節と13-17節のところは私たちの手のわざについて言っている。
前回はすごく構造を考えるときにキアスマスがはやっていた。
前回の人たちが言っていたキアスマスというのは、一点の中心があるというのであった。
詩篇以外の他の箇所にはそのようなキアスマスがあることもある。
しかし、詩篇は並行して書かれているものなので、一点の中心があるようなキアスマスではないだろう。
さいきんはそのことについて見直したため、ABBAか、ABABの構造が多い。
詩篇90篇には多くのはっきりとした並行されているテーマがある。
主を知ることはいのちである、この言い方は箴言3:18節にある。
創世記の3章にあるちりに帰るという言い方を引用して90篇はこの言い方を使っている。
ちりに帰るということは死のことをあらわしていて、知恵に逆らったことによるのろいである。
73篇は90篇と同じ結論であるのに、内容がどちらとも違う。
90篇は第四巻の始まりの詩篇で、73篇は第三巻の始まりの詩篇である。
ちりに帰ることと、恥と、裸であるということはみな同じ事である。
聖書全体の結論は「主よ。来て下さい」ということである。
詩篇89篇の終わりできゅうに人はちりにすぎないということについて言われている。
それは90篇の内容につながっているのである。
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