+ちゃんくんです。
92篇は91篇とはちょっと雰囲気がかわる。
ある注解書では、御父と御子と御霊が91篇の中で話していると言う。
11-12節のところは出来事の並行ではなく、意味の並行である。
出エジプトの事件と十字架の並行も、出来事としての並行ではない。
出エジプト時代の弟子はだれなのかということではない。意味として並行されているからである。
キリスト中心解釈というのはありそうであるけれども、ない。
なぜなら、聖書はすべてキリストのことについて書かれている。
キリストはサタンに攻撃されたときに、13節を読んでみろとは答えない。
べつの律法のところからサタンに対して答える。
サタンがキリストから離れていったときに、御使いたちがキリストのところに集まってきて仕えた。
神様を信じない、また神様に逆らうということは神様を信頼していないことのあらわれである。
キリスト中心に聖書全体を見ることはできるが、それで何か新しいことを学ぶわけではない。
病気についての言い方は5-9節だけだとは思うが、10節にもはいっている。
良い御使いは足を守る。しかし、悪い御使いは足で頭をふまれる。
神様の中にいるならば、いくらわざわいがきても、恐れることはない。
90篇と91篇はつながっているテーマが何個かある。
自分は病気と戦えないのに、病気を戦おうとする。
戦わなければならないときに、戦いに行こうとしないときもある。
自分は戦えないと思って逃げるのは、自分は弱いことを認めているからである。
神様からのさばきとして、疫病がきたときに、いけにえをささげたらその神罰はやんだ。
薬を飲んでどうこうするという話ではない。疫病だから、みんなどんどん死でいってしまう。
神様にいけにえをささげると、そのささげた動物の衣でその人をおおってくださる。
91篇の中で住まいについて話されているので、なんか第三巻の続きみたいに感じちゃう。
93篇から99篇まで主は王であるということについては今度はいう。
第四巻の一番最初の詩篇である90篇では神様のさばきについて話されている。
私たちはわざわいがきたときに、悔い改めて神様のところへ逃げ込まなければならない。
放蕩息子は自分はさばかれるべきものであるということを認めて、父のところへ帰った。
主に恐れることは主に信頼することである。神を恐れない人はだれも神に信頼することはできいない。
悔い改めることをしなければどうやっても逃げ込みたい場所には行きつくことはできない。
みんなは問題からも逃げたいし、悔い改めるという行動からも逃げたくなってしまう。
これは罪の状態に落ちている人のことである。
悔い改めるところにすべてはある。悔い改めることをすればすべて神様が行って下さる。
今起きている問題は自分の罪に対する神様のさばきであることを悟らなければならない。
問題が起きたときに、自分はわるかったなということを思うよりも、神は神であるということを思うほうが大切である。
放蕩息子は大きな問題が起きて、悔い改める道しかないことを悟った。
放蕩息子は自分でこのような大きな問題を造った。
息子は父からのさばきを恐れていたが、父は彼を恵みを持って迎え入れた。
このストーリーの中で大切なのは、悔い改めるなら神様は喜んで赦して下さるということである。
神様は息子のために問題を造ったというのが大切なポイントではない。
御父の約束に従って歩んだメサイアは最後に救われ、恵みを与えられた。
-------------------------------------
+審也@カンノファミリー
mailto:shinya@kanno.com
-------------------------------------