Subject:
詩篇92篇「水曜日の聖書研究」
From:
"+ShinyaKanno" <shinya@kanno.com>
Date:
2005/07/20 10:33
To:
"Saiwainet" <saiwainet@yahoogroups.jp>

+ちゃんくんです。

なつめやしの木ということばはシュロの木とも訳される。
本で見るとなつめやしの木はココナッツの木のようである。
昨日の通読の箇所であった士師記のところにもなつめやしの木ということばが出てきた。

女預言者デボラはなつめやしの木のしたでイスラエルの人々をさばいていた。
出エジプト記15:27節になつめやしの木が七十本あったと書かれている。
なつめやしの木は高いという意味をあらわしている。

タマルという名前はなつめやしという意味である。(ルツ記4:12節)
なつめやしの木の実はプルーンのようなものである。
キリストがエルサレムに入場するときに、人々がなつめやしの木のはっぱを持っていた。

前回は三つにわけて、すべてが真ん中に向かっていると考えた。
でも、最近はキアスマスの構造は考えていない。キアスマスで考えるブームはさってしまった。
ABBAにして構造を考える場合には複数のやりかたを考えることができる。

詩篇は並行方で書かれているので、ABABか、ABBAか、AABBになるしかない。
そのほうが深く構造を見えるのでとかではなく、詩篇はもともとそのように考えるように書かれている。
92篇の構造をABAB、AABB、ABBAによって見てみればよい。

一番の考え方も、三番目の考え方も私たちがどうしているということしか出てこない。
92篇の結論は主は岩、主には不正がありませんである。
一番と三番の考え方だけではちょっとたりなかった、だから二番目の考え方もほしかった。

二番目の考え方は一番と三番よりもずっと神様がどうしているのかを大切にしている。
民が救われることによって、その民が信じている神様の偉大さがあらわされる。
死ぬまでの病気にかかって、それがいやされてもそのいやしを喜ばないのは5-6節に出てくる人のようである。

92節の1節の良いということばは創世記の創造のところから来ている。
人間は神様を感謝するために創造されたのである。

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+審也@カンノファミリー
 mailto:shinya@kanno.com
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