Subject:
詩篇94篇「水曜日の聖書研究」
From:
"+ShinyaKanno" <shinya@kanno.com>
Date:
2005/08/10 10:34
To:
"Saiwainet" <saiwainet@yahoogroups.jp>

+ちゃんくんです。

12節のつながりを見るというときに、みおしえということばがあるので、119篇を見なければならない。
詩篇94篇の中では神からのトーラーをもらった人が幸いな人である。
ここで、トーラーといったときに、この詩篇書いた人はモーセ五書のことをいっている。

119篇にはさばきということばは全部で23回出てくる。
23回のうちの何カ所かはさばきということばに直接は訳されていない。
けれども、ヘブル語のStorong numberでは同じである。

ダビデの時代の人たちにとってモーセ五書というのは福音書である。
福音書にもモーセ五書にも同じ事が書かれている。どのようにして連れ出されたのか。
119篇の中に出てくるさばきということばはヘブル語ではミシュパットである。

このことばのStorong numberは<4941>である。英語ではjudgments。
こうしたら、さばきとトーラーのつながりがなんであるかを119篇から見なければならない。
さばきが行われるということは神様の御国が来ることをあらわしている。

119:7節が119篇の中に出てくるさばきの箇所の一番最初である。
13節のところで、私は神様のさばきを語るけれども、94篇のほうでは悪者は神様はさばかないということを語る。
サタンはアダムとエバを誘惑したときに、あなたは死なない、神はさばかないと言った。

20節のところで、正しい者はさばきを慕って、心が砕かれている。
しかし、94篇のほうでは悪者の心は誇っている。だから貧しい者を砕いてしまう。
へりくだるものは、自分で自分の心を砕く。しかし、高ぶる者は神によって砕かれる。

94篇には私は何をしているということはぜんぜん書かれていない。
119篇に出てくる私の行いに対比して、94篇で悪者は何をしているのかをみなければならない。
トーラーには神様は神様であるということについてこまかく書かれている。

善の最初は創造である。創造のときに善と悪をさばき、区別された。

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+審也@カンノファミリー
 mailto:shinya@kanno.com
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