+ちゃんくんです。
3節と7節の頭にキーがあって、11節のそれゆえで前とつながっている。
7節の後半から11節まではヘブル書3:7-11節に引用されている。
ヘブル書4章で7節の後半から11節までの意味が説明されている。
7節のその牧場の民、その御手の羊という言い方は100:3節を思い出す。
2節の御前に進み行きという言い方は、100:2節の御前に来たれという言い方を思い出す。
7節の牧場の民と10節の心の迷っている民というのは反対の意味である。
7節のきょうと、8節の日のようには同じである。ヘブル語ではハヨムとケヨムということばである。
4節、5節、7節に御手(9節のわざ) 2節、6節に御前
9節では御手ということばは直接はつかわれていないが、そのことをあらわしていることはわかる。
5節と6節の造るというのは創造のことをあらわしている。11節に安息ということばがあるからだ。
ヘブル書3:1節にあるそういうわけということばのつながりがわからない。
彼らは安息日にはいることはできないと言ったときに、彼らということばが強調されている。
彼らだけは安息にはいれないが、他の人は安息にはいることができるという意味がはいると思う。
ヨシュアの時代の人たちは神様の安息にはいれいない。
しかし、ダビデの時代に神様の御声を聞いた人は神様の安息にはいれる。
霊とたましいが区別できないように、間接と骨髄も区別できるものではない。
間接と骨髄はヘブル書3:12節にある。
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+審也@カンノファミリー
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