Subject:
詩篇95篇「水曜日の聖書研究」
From:
"+ShinyaKanno" <shinya@kanno.com>
Date:
2005/08/17 10:29
To:
"Saiwainet" <saiwainet@yahoogroups.jp>

+ちゃんくんです。

3章の1節はそういうわけでという始まり方になっているので、それについてみなければならない。
それと、7-11節の引用されている箇所の位置づけを見なければならない。
聖書に出てくる一番最初の大祭司はメルキゼデクである。

モーセは直接は大祭司ではないが、神様と直接しゃべっているのモーセである。
アロンは大祭司と任命されてはいるけれども、モーセのようには直接はしゃべらない。
アブラハムは実際には大祭司ではないが、大祭司とも言うことができる。

大祭司は私たちのために、この世に来たときに、私たちと同じ苦しみをされた。
それだから、今天にいても、私たちが苦しむときにはその苦しみをいっしょにあじわってくれる。
マサとメリバは同じ場所である。マサは試みという意味で、メリバは争いという意味である。

このことが書かれている箇所は出エジプト記17:7節である。
心をかたくなにすることは神様のことを試みているのと同じ行動である。
神様は被造物を七日間によって創造された。その最後の日は安息日である。

天地が造られるということによって神様は王であるということをあらわしている。
被造物を秩序正しく支配される神様がどうして教会を支配できないことがありましょうか。
神様は細かいところも支配しておられ、太陽のような大きいものさえも支配しておられる。

イスラエルはエジプトから出たときのこのようなことができる神様をすぐに忘れてしまった。
出エジプトの救いは創造のわざである。
このことをわかっていなければ95篇の前半と後半はつながらない。

申命記は安息日で始まって、安息日の話で終わっている。
詩篇というのは王様の時代に与えられた律法である。

モーセの律法の中に王様についてのことはある。
神様は最初から王様を与えようとしていなかったわけではない。
イスラエルは良いやりかたで、また良い時期に王を求めなければならない。

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+審也@カンノファミリー
 mailto:shinya@kanno.com
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