+ちゃんくんです。
詩篇95篇を呼んだときに100篇に似ていることに最初に気がつく。
95篇の終わり方(彼らは安息にはいれいない)はちょっとへんで、こまってしまう。
95:7b-11節まではヘブル人への手紙3:7-11節に引用されている。
4章ではこのことについての意味が説明されている。
神様の御声を聞くかどうかということは忠実かどうかをあらわしている。
もし、きょう神様の御声を聞くならば、安息にはいることができる。
安息はきょうと言われている日のためにまだ残っている。ヨシュアの時代で終わったわけではない。
私たちが山を見るときに、すごいなというのが一番大切なところではない。
神様が王であるということをあらわすために山、海は造られた。
94篇は神様は岩であるということで終わって、95篇では神様は岩であるということではじまっている。
教会は揺るがされることのない岩の上にたてられるとイエスはペテロに言われた。
アダムは罪を犯したあとに、神様の御声を聞いた。そうしたら、彼はこわがって隠れた。
神様の御声を聞かないということは神様をためすこと、また逆らっていることである。
このようなものは神様に忌みきらわれるものとなる。
神様の御声を聞くといったときに、ただはいはいというだけではだめである。
神様の御声を聞くということのあらわれは1-7節である。
御声を聞いているのか、それとも聞いていないのかわからないというのはだいたい逆らっている状態である。
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+審也@カンノファミリー
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