Subject:
詩篇96篇「木曜日の聖書研究」
From:
"+ShinyaKanno" <shinya@kanno.com>
Date:
2005/08/25 10:39
To:
"saiwainet" <saiwainet@yahoogroups.jp>

+ちゃんくんです。

その詩篇の構造を分析したり、ほかの詩篇とのつながりを見たりすると何がよいのか。
構造を分析するときに、並行をつかってその構造を分析している。
並行方にはいろいろなものがある。(節の並行、段落、詩詩、詩々詩々、巻巻)

詩篇の構造を導入があって、最後に解決があると考える人は、詩篇は論理的に書かれていると思っている。
どこがどこと並行しているのかを見るために、いつもまず色塗りをしている。
こじつけしようと思えば、いくらでも考えることはできる。

構造を分析するときに、こじつけではなく、正しくそこに書かれている文章の意味を理解することができる。
詩篇119篇のように、良い分け方をすることによって、正確に覚えることができる。
自分の好きなところだけはなく、そのまわりのところも覚えることができる。

良い知らせと言ったときに、普通の人はそれをキリストの十字架のことであると言う。
主は王であられるということが良い知らせであるということはだれも言わない。
構造を分析することによって、みことばがみじかになってくる。

全体が何を言いたいのかも把握しやすくもなってくる。
祈りについて学ぼうとして最初詩篇を学びはじめたが、祈りだけではなく、全部について教えてくれた。
1篇と2篇で詩篇はトーラー(教え)であると言っている。

詩篇を学んでいることによって、感謝の祈りをすることを学ぶことができる。
こまったとき、苦しいときに祈ることはできる。
感謝、また喜び歌っていることについて一番書かれている書物は詩篇と黙示録である。

詩篇の中で神様の栄光について一番よく言われている。
主の栄光をあらわし、主を永遠に喜ぶことが、人の主たる目的である。
律法ではきよさについて教えられる。そして、詩篇では愛について学ぶことができる。

詩篇というのは頭のいい人だけが読むものではない。普通の人でも読める。
私たちみたいな人たちでも詩篇を読むことができる。
そのように、読むようにもともと詩篇は書かれている。

それぞれの詩篇を分析しているというよりも、観察しているということが言える。
分析しないでは生きていかない。みんな分析はしているが、まがった分析をしている。
もしくは分析をしていても、自分の行いがその分析とは違う。

病気の詩篇を読むときに、私たちも病気にならないととは言わない。
病気というのは罪の赦しのことを言っているということを覚えて、その詩篇を見なければならない。

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+審也@カンノファミリー
 mailto:shinya@kanno.com
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