Subject:
詩篇99篇「火曜日の聖書研究」
From:
"+ShinyaKanno" <shinya@kanno.com>
Date:
2005/09/13 11:04
To:
"saiwainet" <saiwainet@yahoogroups.jp>

+ちゃんくんです。

5節と9節がいっしょであること、3節と5節と9節に主は聖であるということがあることに最初に気がつく。
99篇は主は聖であるという言い方が三回も出てくるが、1節の頭は主は王であるとはじまっている。
4節の頭にそして(ヴェ)という接続詞がはいっている。

今週の詩篇にはモーセ、アロン、サムエルという三人の名前が出てくる。
日本語訳では1節と2節と3節に国々の民ということばがあるが、ヘブル語では3節に国々の民ということばはない。
構造を考えるときに前半を5節までにするのか、それとも5節を後半の頭にしてしまうのかはこまるところである。

5節と9節だけに主は聖であるというのがあるのならばいいが、3節にも主は聖であるがある。
このところはすごく、構造を考えるときにこまるところである。
祭司について考えるときに、祭司と言われる人はきよさを守る働きをするということで、聖かなーとも考えることはできる。

もし、3節に主は聖であるということがなければ、1-5節と6-9節になって、すなおに構造を考えることができる。
6-8節のところは5節と9節にはさまれていると言ったとしても、ちょっと前のところとは雰囲気が違う。
6-8節というのは第四巻にはないようなテーマがいくつか出てくる。

主は聖であるということだけを見るならば、3節、5節、9節と言える。
しかし、われらの神、主という言い方によって見るときに5節、8節、9節にあることがわかる。
9節はなぜなら、われらの神、主は聖であるというようにキーがはいっている。前のところよりも強調されている。

われらの神、主という言い方は99篇の中に一番出てくることばである。(4回)
主は聖であるは三回で、国々の民、彼らに答える、あがめよは二回である。
1-5節と6-9節にしたときには5節と9節の文章はそれぞれの最後に来ている。

1-5節と6-9節の前半と後半にわけた場合には前半には主は聖が二つはいっていて、後半にはわれらの神、主が二回はいっている。
1-4節と6-8節が並行しているように見ようとすると、ぜんぜん違うように見えてしまう。
神様は国々の民をさばいておられる、神様は御座についておられるということを一言で言うと主は王であるということになる。

前半の1-4節では5節のコーラスの意味を説明していると考えることができる。
同じように、後半の6-8節で9節のコーラスの意味を説明していると考えることができるのではないか。
5節の足台というのは御座のことをあらわしている。御座とはさばきの座である。

6-8節の出エジプトの出来事は聖なる山での出来事である。
9節の聖なる山というのは5節と同じように観察していくとどのようになるのか。
3節のところには主は聖であるということばははいっているが、われらの神、主ということばははいっていない。

反対に8節にはわれらの神、主ということばははいっているが、主は聖であるということばははいっていない。
第一歴代誌に出ている系図を見ればわかるように、サムエルはレビ人である。
もし、サムエルがレビ人でなければ、神様の家に住むことはできない。

私たちが呼んだら、答えて下さる神様を聖であると呼んでいる。
神様は聖であるから、さわることはできない。しかし、われらの神、主であるので呼ぶことができる。
祭司はわれらの神である主を呼ぶことのできる人である。

出エジプトのストーリーはイスラエルが苦しみの中から呼び求めたというところからはじまっている。
出エジプト記34章の主の御名の中に神様は罪を赦すが、罰すべきものは罰すると言われている。
また、34章の5節のところで、主は雲の中にあって降りて来られ、主の名によって宣言された。

これはまさしく詩篇99篇の7節の雲の中から語られたということである。
モーセが神様に栄光を見せて下さいと願ったときに、このことを神様は行われた。
出エジプト記34章の話のあとに、モーセが神様と顔と顔とをあわせて話したことがある。

神様はアブラハムにあなたの子孫を大いなる国民としようと約束された。
神様は大いなる方であられるが、その民も大いなる民である。
国々の民はイスラエルのことを見て、このような神を持つ民はどこにあろうかと言う。(申命記4:7節)

神様が聖であるということはイスラエルの歴史の中でだんだん教えられていった。
山を造られた神様と同じ神様が私たちをも支配しておられる。
きよい神様が私たちにこのようにしてくださったので、私たちも神様にこのようにしますということをしなければならない。

申命記14章から14:21節までが十戒の第三番目の説明の箇所である。
この動物を食べてよい、食べてはならないと言っているのは、あなたがたは主の聖なる民であるということをあらわしている。
苦しみがきたときに、まず神様に本気で祈らなければならない。

まだ何か苦しみのなかでできそうなときは本気では祈らない。
やるべきこともやらないで神様に祈っても、神様はその人を助けてくださらない。
偶像礼拝をしてはならないということはすごくむずかしいおきてではない。

病気がきたときに、薬、もしくは医者によって解決を求めようとしてはならない。
このようなことをしてはならないというようなことは子供でもわかる。
自分たちの状況がひどいのに、それをわからないという人もいる。

このように考えてくると、1-5節は足台、6-9節は聖なる山に住むということになることがわかる。
前半はさばき主なる神様で、後半は救い主なる神様である。
私たちがどのようなすごい宝物を持っているかを知らないので、偉大なる神様も知らない。

聖書を正しく読んでいないと、自分の毎日の生活に適用するようなことは絶対にできない。
2節にシオンという名前が出てくるが、ここの並行がどうすればよいのか。
シオンというのは聖なる山と並行していると考えることができる。

4節のヤコブの中という言い方はどのように考えればよいのか。
サムエルという名前は神様は聞かれたという意味である。

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+審也@カンノファミリー
 mailto:shinya@kanno.com
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