+ちゃんくんです。
99篇を見たときに主は聖であるということばが三回も出てくるので、すごく目立つ。
しかし、99篇を見たときにもう一つ気がつかなければならないことばがある。それはわれらの神、主である。
この言い方は最初見たときにはあまり大切なことばのようには見えない。しかし、大切である。
99篇は主は王であるということばで始まっているが、後半のところではぜんぜんその言い方と関係ない。
99篇も93篇から関連している詩篇であると見るように、主は王であるという言い方が入っているとも言える。
ヨシュアは死ぬ直前にイスラエルに主は聖なる方であると言った。そのとき同時に主は正義を行う神であるとも言った。
ヨシュア記24章のところで、神様について赦しの神という名で呼ばれている。
偶像礼拝をするということは、われらの神は、主ではないと言っているのと同じ行動である。
モーセ、アロン、サムエルは聖なる民である。だから、神様の祭司の中にいることができる。
われらの神、主は聖なる方なので、私たちも聖なる民でなければならない。
われらの神、主に対しては、神の民であるイスラエルということになる。
この世から離れなさいといったときに、何もこの世と同じものをつかってはならないというわけではない。
この世の人々が信じている神々から離れなさいということである。
神様は私たちを苦しみの中から救い出されたので、私たちは神様の言うことを聞かなければならない。
これが神様が私たちに与えて下さった命令である。
大いなる神様は大いなる民によってあらわされる。
こんどは反対に大いなる民はどのようにあらわされるのか。国々の民の上にあげられることによる。
神様に呼ぶと答えてもらえる民はどこにあるのだろうかと国々の民は言う。(申命記4:6-8節)
申命記を呼んで知っている人は、99篇を呼んだときに、似ていることに気がつく。
申命記では神が民を選ぶと言っている。しかし、ヨシュア記では民が神を選ばなければならないと要求されている。
ヨシュア記の民が神を選ばなければならないという箇所はヨシュア記24:22節にある。
アブラハムに与えられた契約とのつながりも見なければならない。
アダムは自分に与えられた約束を果たすことができなかった。
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