+ちゃんくんです。
6-8節の中はどのように分かれるのか。
6節でまずモーセとサムエルは神様を呼んだ。そうしたら神様は答えてくださった。
7節で神様は語られた、彼らはそれに答えて、守った。
8節のしわざというのは訳の問題であって、もともとはわざということばである。
しかしということばがはいっているのでまちがえてしまう。しかしということばは接続詞のそしてということばである。
神様は私たちの呼ぶ声に聞いて下さる。だから、私たちは呼ばれたときに聞かなければならない。
聞きなさいということばの中に守るということばの意味がはいっている。
聞くだけでよいというわけではない。
例えば、申命記のところで聞け。イスラエルと言ったときに、守りなさいという意味がふくまれている。
1-4節の中は1-2節と3-4節の二つにわかれる。
1節と4節に王と御座とさばきが出てくる。2節にシオンにおいてがあって、4節にヤコブの中でがある。
2節と3節に主は大いなる方であるというのがある。
1節と3節に国々が恐れる、震えるということがある、それに対しておそれおおい御名をほめたたえるということがある。
1節には国々を恐れさせることのできる王様というだいがつけられる。
2節には国々よりも高いところにおられる王といことになる。
続いて3節はその王様の御名ということになる。4節はその王様の公正なさばきということである。
聖なる山のうえには会見の天幕がある。そこは神様と会うための場所である。
国々を恐れさせる王といったときに、国々をさばく王という意味がふくまれる。
御座はさばきあらわす。御座はさばきの座である。そこでさばきを行われる。
1-4節はABBAになっていて、6-8節はCDCDになっている。
放蕩息子はお金がなくなったので、お父さんを知った。
お父さんのところへ戻ったら、お父さんは息子のことを赦して、報いてくださった。
サタンも神様を知ることにはなるが、否定的に知るということである。
1-5節と6-9節を二つにわけて、ばらばらの詩篇にしても考えられる。
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+審也@カンノファミリー
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