Subject:
詩篇100篇「火曜日の聖書研究」
From:
"+ShinyaKanno" <shinya@kanno.com>
Date:
2005/09/20 10:59
To:
"saiwainet" <saiwainet@yahoogroups.jp>

+ちゃんくんです。

1節と2節に喜びということばが三回繰り返されているわけではない。
ヘブル語を見ればわかるように、喜びに似ていることばが三回でてくる。4節の感謝についても同じである。
1-2節には主ということばはあるが、4節にはない。

反対に4節に御名ということばは出てくるけれども、1-2節にはそのことばはない。
1-2節の終わりは来たれで、4節の始まりは来たれ。
このように考えてきたら、3節と5節が並行していると考える。

3節と5節の頭はどっちともキーで始まっている。
3節と5節をひっくりかえして構造を考えても、別におかしくはない。
ということは3節と5節は同じことを言っているということになる。

3節と5節には主以外は何も同じことばはない。けれども、内容としては並行している。
5節のいつくしみということばはヘブル語では善ということばである。
善ということばを聞いたときに、創造のことを思い出す。

3節は神の民で、5節は民の神であると考えることもできるのではないか。
ヘブル語を見ると、5節を二つに分けられるということに気がつく。
3節には四つあるように見える。(私たちを造った、主のもの、主の民、牧場の羊)

日本語の新改訳を見て考えると、3節は三つの文章があると考えることができる。
知れ主こそ神、私たちを造られたが一つの文章で、私たちは主のもの、主の民でもう一つの文章、最後は牧場の羊である。
今やっているのは3節と5節の内容が似ているので、形も似ているのかを見ようとしている。

ある注解書で100篇はクライマックスなのに、すごく詩篇の内容が短いと言っている。
ヘブル語で100篇を読んでいるものを聞くと、主こそ神というところできっている。
主が私たちを造られたということと主は私たちを牧するということが並行していると考える。

このように考えると主こそ神と私たちは主の民が並行しているということになる。
5節は主はいつくしみ深くと訳されているが、ほんとなら主はいつくしみ深いということになる。
4節の最後の御名をほめたたえよは3節の知れと並行している。

3節は知れのあとにキーがあって、4節の御名をほめたたえよのあと、(5節の頭にキー)がある。
内容としては3節よりも5節のほうが、発展していると見ることができる。
神様の御名の中に、恵みを千代にまで及ぼすということが言われている。

3節の知れというのはエレミヤ書31章にあるもう神様を知れとは言わなくて良いというのと同じである。
100篇みたいな短い詩篇の場合はヘブル語を見て、構造を考えていかなければならない。
100篇というのは第四巻の中で一番大切で、有名な詩篇であると言われている。

今考えた100篇の構造があっているかどうかを確かめるためには95篇を見ればよい。
95篇は100篇と同じものがはいっているあとに、荒野でこのようにしたということが入っている。
95篇の7-11節はヘブル書3:7節からに引用されている。

5節のその恵みはとこしえまでという言い方は契約の箱を運び込むときにいう言い方である。
このことはダビデのときも、ソロモンのときにも歌われている。(第一歴代誌16章、第二歴代誌7章)
第一歴代誌16章には96篇と105篇と106篇が入っている。

その恵みはとこしえまでという言い方は手紙の終わりや、詩篇のそれぞれの巻の終わりにある。
聖書の最後の書物である黙示録もその恵みはとこしえまでという言い方で終わっている。

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+審也@カンノファミリー
 mailto:shinya@kanno.com
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