Subject:
詩篇100篇「水曜日の聖書研究」
From:
"+ShinyaKanno" <shinya@kanno.com>
Date:
2005/09/21 10:39
To:
"saiwainet" <saiwainet@yahoogroups.jp>

+ちゃんくんです。

100篇の構造を考えるときに3節と5節のつながりについてよくわかれば、他のところもわかる。
その恵みはとこしえまでという言い方は第一歴代誌16:34が一番最初である。
出エジプト記15章のところにあるモーセの歌の中で、その恵みはとこしえまでと歌われてそうだがない。

その恵みはとこしえまでという言い方直接ではないが、十戒の第二戒にそれをあらわす言い方がある。
出エジプト記34章の神様の御名のところにも、恵みを千代まで及ぼすという言い方がある。
詩篇100篇の4節と5節は主はまことにいつくしみ深い、その恵みはとこしえまでの長いバージョンである。

第一歴代誌17:13節に、私はあなたがたの神となり、私はあなたがたから恵みを取り去らないと言っている。
第二歴代誌7:3節で、ソロモンが神殿を建て終わったときに、その恵みはとこしえまでと歌った。
第二歴代誌7:6節で、ダビデ王はその恵みはとこしえまでとほめたたえるために楽器を作ったと書いてある。

100篇4-5節の言い方が聖書のいろいろな箇所にあることはわかっている。
まず、最初に見るべき箇所は出エジプト記20:6節である。次は出エジプト記34章である。
ほかにもまだまだ見なければならない箇所がある。

第二サムエル記7:15節のところにダビデから恵みをもぎ取らないということが言われている。
第二サムエル記7:15節の次が第一歴代誌16章のダビデの歌である。
第一歴代誌16章のところで、民がその恵みはとこしえまでと歌っているのではない。

ダビデによって選ばれたものたち(ヘマンとエドトン)がその恵みはとこしえまでと楽器をもって歌った。
第一歴代誌17:13節というのは第二サムエル記7:15節と同じことを歌っている。
この次は第二歴代誌5:13節でその恵みはとこしえまでと歌っている。

第二歴代誌7章のところでもその恵みはとこしえまでと歌われている。
5章と7章の間、6章のところでソロモンが神様に神殿奉献の祈りをささげる。
音楽は神様にささげる祈りをあらわしている。

祈るということは私たちが天にのぼっていることもあらわす。
黙示録の中で聖徒たちの祈りは神にささげられる香りである。
女の人の良い香りはエデンの園の香りをあらわしている。

エレミヤ書33:11節で、あなたは恵み深く、それは耐えることはないと歌われている。
エズラ記3:11でもエレミヤ書と同じことが歌われている。
その恵みはとこしえまでというときに、マタイによる福音書28:20節を思い出す。

手紙の始まりにも終わりにも恵みと平安があなたがたの上にありますようにと言う。
聖書もその恵みはとこしえまでという言い方で終わっている。
どのようなときに、その恵みはとこしえまでと歌われているのか。

出なんとかで行くと、出エジプト、出ペリシテ、出バビロン、出旧天旧地になる。
出なんとかというのはそれぞれの時代の王様がかわっているということである。
出エジプトのときはモーセ、出ペリシテのときはダビデ、出バビロンのときは帝国、出旧天旧地は主。

主に向かって歌うということの一番最初の箇所は出エジプト記15章である。
第一歴代誌16章23節にもそれに似ている言い方がある。
このように見てきて、AとBの関係はどのようになるのか。

100篇には第四巻の大切なテーマであった主は王であるということが何も出てこない。
今その恵みはとこしえまでということを研究してきて、わかるように、この言い方は主は王であることをあらわす。
幕屋、神殿が再建されるということは平和であることをあらわしている。

王様がかわることも恵みをあらわしている。
その恵みはとこしえまでという言い方をいいかえると、キリスト万歳ということになる。
その恵みはとこしえまでという言い方を聞いたときに、自分たちに対するよい都合のように聞こえてしまう。

Bは主は王であるということならば、Aは私たちは民であるということになる。
出エジプトのストーリーはイスラエルが苦しみの中から神を呼んだというところからはじまる。

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+審也@カンノファミリー
 mailto:shinya@kanno.com
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