+ちゃんくんです。
その恵みはとこしえまでという言い方を見ました。
今回聖書研究の中でその恵みはとこしえまでという言い方の箇所を見てきた。
この言い方はどのようなときに歌われるのか。
幕屋、神殿が再建されたとき、王様がかわったときに歌う。
ダビデのところは契約の箱が戻ってきたということで歌った。
ソロモンの場合は神殿ができあがったということで歌った。
昨日の聖書研究のときにやったが、100篇は第四巻のクライマックスである。
なのに、大切な主は王であるというテーマがいっさい出てこない。
しかし、今まで見てきたその恵みはとこしえまでということについて見ればわかる。
この言い方は王様がかわるとき、神殿が建て直されるときに歌われた。
普通ならその恵みはとこしえまでという言い方を聞いたときに、
自分たちに何かよいことがあったので、恵みはとこしえまでと言っているように感じてしまう。
しかしそうではない。聖書のいろいろな箇所を見ればそうではないことがわかる。
そうであったら、その恵みはとこしえまでと歌っている箇所はない。
詩篇89篇の中でも恵みをもぎとらないといったときに、ご飯がどうのこうのとは言っていない。
その恵みはとこしえまでということについて研究してくれば、
これが主は王であるということをあらわしている言い方であることがわかる。
幕屋、神殿が再建されることは平和である状態をあらわしている。
その恵みはとこしえまでというテーマは詩篇100篇の中ではBである。
この言い方が主は王であるということであるのならば、Aはどうなるのか。
Bが主は王であるならば、Aは私たちは民ということになる。
-------------------------------------
+審也@カンノファミリー
mailto:shinya@kanno.com
-------------------------------------