Subject:
詩篇101篇「火曜日の聖書研究」
From:
"+ShinyaKanno" <shinya@kanno.com>
Date:
2005/09/27 10:38
To:
"saiwainet" <saiwainet@yahoogroups.jp>

+ちゃんくんです。

2節の心を留めるということばは見るという意味である。
2節のもう一個の心と4節と5節の心はヘブル語でもまったく同じことばである。
今回101篇にはいって、ちょっと驚いたのは、悪者の話がたくさん出てくることである。

第四巻には悪者がどうしているということがあまりない。この詩篇は第二巻的である。
101篇も主に歌いましょうという言い方で始まっている。
新しい歌というのはさばきが行われたときに歌うものである。

1節で恵みとさばきを歌いましょうということが言われている。
3節と6節と7節にある私の目という言い方は同じである。
3節と7節にだけは私の目の前という言い方がある。6節には前がない。

101篇には神様が敵をさばくというようなことは何も書かれていない。
101篇では私が敵をことごとく滅ぼされるということが言われている。
ということを見ていると101篇には王様の詩篇であるということがわかる。

8節には主の都という言い方はあるが、神様の行動について書かれているわけではない。
100篇では神様が私たちに来なさいと言っている。
しかし、101篇の2節では、私たちが神様に来て下さいといっている。

101篇の6節では全き道を歩むものは私に仕えますと言っている。
それに対して100篇では私は主に仕えますと言っている。
94篇をざっと見たぐらいでは101篇に似ているように見える。

第四巻のつながりの表では101篇と90篇がつながっているとも言われている。
101篇と102篇もつながっていると言われているので、ここのつながりも見なければならない。
構造を考えるときには1節をどうすればよいのかこまる。

5節と8節にはことごとく滅ぼしますというテーマがあるので、単独になる。
前半は神様と王で、後半は王と民の関係である。
101篇の中に出てくることばを第四巻の中に出てくることばと見て、位置づけしなければならない。
神様と王の関係は王と民の関係によってあらわされる。

-------------------------------------
+審也@カンノファミリー
 mailto:shinya@kanno.com
-------------------------------------