Subject:
詩篇101篇「木曜日の聖書研究」
From:
"+ShinyaKanno" <shinya@kanno.com>
Date:
2005/09/29 10:26
To:
"saiwainet" <saiwainet@yahoogroups.jp>

+ちゃんくんです。

士師記にさばきつかさが治めていた間はイスラエルは平安であったというテーマがある。
ソロモンは神様に知恵を求めて、その正しいさばきによってイスラエルは平安であった。
101篇の2節から5節までは私は何をするということが言われている。

6節は民はこうするということを言っていて、7節は悪者はこうなるということが言われている。
90篇とはつながっているようには見えないが、つなげて考えれば何かいいことが見つけられるのではないか。
やっぱり、101篇の1節は別に考えたほうがいいのではないか。

102篇、101篇と90篇のつながりを見るということだった。
来週の詩篇である102篇はすごく内容が苦しい。
101篇と102篇は詩人の状態が反対になったようにも見える。

102篇ではすごく詩人は苦しくなっている。
しかし、101篇では勝利を確信しているかのような詩人の状態である。
101篇は90篇に似ているというよりも、94篇に似ているということが言える。

101篇から105篇までには出だしがついているかのようである。
その中で103篇と104篇は出だしも、終わりも同じ言い方である。
家の中と、国の中は同じところをあらわしているのか。

6節と8節はヘブル語では地のと言われていて、中ということばはない。
しかし、2節と7節には中ということばがちゃんとある。
前半は神様と王の関係について話していて、後半では王様と民の関係について話されている。

3、4節のところで、王は悪から離れる。それに対して7節で悪者は王様から離れる。
王様はこうするということは言われているが、民がこうするということは言われていない。
民はこうしますようにということしか言われていない。

前半では神様に来てもらう、後半では民に来てもらうということになっている。
6節を民がするので、悪者は7節のようになる。
101篇に出てくる悪者というのは民の中の悪者である。

王様は良い民と、悪い民を区別するために、さばきを行っている。
神様が住まいであるということが90篇の一番大切なテーマである。
だれが、その聖なる住まいに住むことができるのか。

24篇にあるように、101篇の3節、4節のような人がその聖なる住まいに住むことができる。
モーセは101篇の5節のようなものではなく、謙遜なものであった。
90篇の人は自分は神様の怒りによって滅ぼされるものですということを認めている。

謙遜と言ったときに、私もさばかれるものたちと同様なので、私はさばかないということではない。
キリストは御父に対しても、民に対しても忠実である。だから民も忠実である。

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+審也@カンノファミリー
 mailto:shinya@kanno.com
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