+ちゃんくんです。
カンノパパの構造は今のところは四つにわけて、ABBAにするということになっている。
色塗りをすればわかるように、12-17節では四回もシオンということばがつかわれている。
12ー17節のシオンということばは21節のシオンとはちょっと違う。
というのは、12-17節ではシオンを何するということが言われている。
21節ではシオンで主を賛美するということを言っている。ここはシオンで何をするということが言われている。
青菜しおれの人たちと新しい民という人たちは同じ人である。
詩篇102篇の25-27節はヘブル人への手紙1章10-12節に引用されている。
ヘブル人への手紙1章8-12節は御子について言っている箇所である。
102篇の1-11節に出てくる人たちの求めているところは12-16節である。
私たちの感覚で考えればすごくへんな感じである。病気をいやしてくださいというようなことは求めていない。
もちろん病気をいやしてくださるようには頼んでいるが、それが一番の求めているところではない。
最初は罪を犯したときに一番上からおっこちた。罪赦されたときにはおっこちた場所に戻る。
前半は祈りを聞いてくださいとのサンドイッチになっている。
17節にはからですということばはなくて、そのかわりにそしてという接続詞がある。
12節の頭にはそしてという接続詞があるので、そこをどうしたらよいのかを考えなければならない。
ヘブル人への手紙を尊重して25-27節にするのか。
そうすると25-27節の御子について言われていることがおまけになってしまう。
前半を1-22節までにしてしまって、1-12節が祈りで、13-22節がそれに対する答えにするか。
どの構造が一番よいのかはわからないが、いろいろな構造を考えることができる。
23-28節で私たちの齢は短いけれども、神様はとこしえまでも変わらないと言っている。
12節の頭にそしてがあるということで、最初考えていた構造がくずされた。
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+審也@カンノファミリー
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