Subject:
詩篇102篇「構造を知るための手がかり」
From:
"+ShinyaKanno" <shinya@kanno.com>
Date:
2005/10/04 11:31
To:
"saiwainet" <saiwainet@yahoogroups.jp>

+ちゃんくんです。

詩篇102篇の内容のつながりを知るために、ここを知ったらわかるというところについて見ました。

■ヘブル人への手紙に引用されている

詩篇102篇の25-27節はヘブル人への手紙1章10-12節に引用されている。
ヘブル人への手紙1章の8-12節では御子について言っている箇所である。

その中で、詩篇102篇の人の齢は短いが、神様はいつまでも変わらないという箇所を引用する。
なぜ、パウロは御子についてはこう言われているというところで、ここを引用する。
23節からもう私の日は短いとか言っているのに、わざわざ、25節から引用しはじめた。

■90篇とのつながり

102篇は101篇よりも90篇に似ている。
なぜなら、90篇でも目立つ私の日は短い。
しかし、神様はとこしえまでも変わらないというテーマが何回も出てくるからである。

90篇の5-6節には草はかれ花はしぼむという表現がでてくる。
102篇には神様の怒りのために苦しんでいるということは出てこない。
90篇の場合では私の手のわざで、102篇では天は神の手のわざですと言われている。

■ペリカン、ふくろう

レビ記と申命記ではペリカンは汚れた動物であるので、それを食べてはならないと言われている。
ゼパニヤ書2:14節ではペリカンとふくろうがいっしょに出てくる。
イザヤ書と今のゼパニヤ書にはペリカンと針ねずみが出てくる。

ふくろうもペリカンと同じようにレビ記に書かれている律法の中で食べてはならないと言われている。
屋根の上のひとりぼっちの鳥という言い方は102篇にしかない。

■詩篇102篇の17節

新改訳の場合には17節にはからですというのが最後にある。
しかし、ヘブル語ではからですということばははいっていないくて、祈りを顧みのあとにそしてという接続詞がある。

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+審也@カンノファミリー
 mailto:shinya@kanno.com
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