Subject:
詩篇102篇「木曜日の聖書研究」
From:
"+ShinyaKanno" <shinya@kanno.com>
Date:
2005/10/06 11:08
To:
"saiwainet" <saiwainet@yahoogroups.jp>

+ちゃんくんです。

詩篇102篇には直接主は王であるという言い方は出てこない。
第四巻には93篇から続いて主は王であるというテーマがあった。
しかし、102篇の12節には神様はとこしえまでも御座につくということが言われている。

第四巻は第一巻、第二巻とは違って詩人がぜんぜん苦しんでいない。
反対に第四巻の中には詩人が苦しんでいる詩篇が少ない。
第四巻の中では苦しんでいる詩篇というのは90篇と102篇ぐらいである。

94篇にも悪者が横柄に語るとか出てくるが、詩人があまり苦しんでいるようには見えない。
92篇は102篇の状態の反対のようになっていると考えることができる。
102篇では詩人が青草のようになっている、しかし、90篇では悪者が青草のようになっている。

91篇の1節はすごく90篇の導入に似ている。神様を住まいとするというテーマがある。
105篇と106篇のある部分は第一歴代誌16章のダビデの歌にある。
102篇の13節の始まり方がちょっと変な感じもする。

というのは12節はしかし、主よという言い方で始まるからだ。
12節と13節をつなげるとよくないのは、あとがヴェとキーが続いているからだ。
やっぱり前半を1-17節にして、その中を1-11節と12-17節にわけることにしよう。

そうすると1節の17節の並行がもっといかされてくる。
前半の中に神様は長いということが短く書かれている。(12節)
しかし、後半では神様が長いということが長く書かれている。

1-11節は私が中心になっていて、12-17節はシオンで、18-22節は民、23-28節は御子である。
御子とシオンがいっしょになっているというところが大切なところである。
12-17節は神様が主人公とはなっているが、その場面の中での一番大切な場所はシオンである。

神様と人間が並行しているというならば、シオンは荒野と並行している。
シオンと荒野が並行していると言うならば、民と王というふうにまとめることになる。

シオンの王に対しては新しい天の王ということになる。シオンが新しい天をあらわしているということも言える。
シオンはダビデの時代からあったものである。

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+審也@カンノファミリー
 mailto:shinya@kanno.com
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