Subject:
詩篇103篇「構造を考えるときのこまっているところ」
From:
"+ShinyaKanno" <shinya@kanno.com>
Date:
2005/10/12 11:15
To:
"saiwainet" <saiwainet@yahoogroups.jp>

+ちゃんくんです。

構造を考えるときの手がかりとなるところ、またこまっているところについて見ました。

■手がかり

11節と17節の形が似ている。(恵みは主を恐れる者の上にある)

14節と18節の終わりのところには心に留めるということばがある。

8節、9節に神様はいつまでも怒ってはおられないということがある。
それに対して15節で人の日は草のように短いということがある。

103篇はわがたましいよ。主をほめたたえよという言い方で始まって、
わがたましいよ。主をほめたたえよという言い方で終わっている。

6節と19節は神様は王であるということをあらわす文章がある。

1-7節の中にはすべてということばが4回も出てくる。

11節と12節と13節の形が似ている。(のように~される。)

5節の後半のわしのように新しくなるはイザヤ書40章31節に引用されている。

8-10節はみんなの得意な主の御名を宣言された出エジプト記34章6節から7節を思い出す。

11節の天が地上はるかに高いように恵みは主を恐れる者の上に大きいという言い方は詩篇57篇の10節を思い出す。

人の日は草のようというところはまず最初にイザヤ書40章6節に引用されている。
第一ペテロ1章24節でペテロがイザヤ書40章6節を引用した。
詩篇1篇にもこのような言い方がある。

人の日は短い、しかし神様の恵みはとこしえからとこしえまでであるという言い方は、
最近やっていた詩篇90篇と102篇を思い出す。

11節と14節にキーがあって、17節にそしてという接続詞がある。

■こまるところ

前半のコーラスが1-5節までになることはわかる。
後半のコーラスは20-22節までである。

そうすると中は6-12節と13-19節までになる。
11節と12節と13節の形が似ているのそこをくっつけたいが、14節の頭にキーがあって、
どうしてもキーやそしてを尊重したいので、13節と14節をわけることができない。
また14節と15-16節の話につながっている。特にわけたくなってしまう。
毎週詩篇を学んでいる人はわかるが、同じように場所をわざとわけるという手もある。
もしかしたら、14節と15-16節はつながっているが、そこをわけるとよいかもしれない。

6節と19節だけ神様は正しいさばきを行うということがあるので、構造の中で飛び出している。

11節と17節が似ているということだったが、そこはどうしたらその並行を尊重することができるのか。

前半を最初は6-12節までにしていたが、6-7節は飛び出しているように見えるので、
それを前の1-5節のところにくっつけると良さそうに見える。
後半も同じように19節を後の20-22節の中に入れてしまう。
けれども、6-7節と19節は飛び出しているように見える。
よくあるように、6-7節を別のところと並行していると考えればよいのではないか。
1-5節と19節が並行していると考え、6-7節と20-22節と並行していると考えるのではよいのではないか。

1-5節は罪を犯した者の罪を赦して下さったから主をほめたたえるということであった。
しかし、20-22節には主をほめたたえるための理由がない。
民が忠実であるということは神様が行って下さったとおりを行うということである。
神様をほんとに喜んでいるかどうかは、命令を守っているかどうかにあらわれる。

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+審也@カンノファミリー
 mailto:shinya@kanno.com
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