+ちゃんくんです。
場所が与えられてから人が増えたわけではない。
エジプトにいた時代にもう人が増えていた。そのあとに神様から場所が与えられた。
25節から38節まではモーセのエジプト時代で、39-42節まではモーセの荒野時代である。
しかし、43節にエジプトから御民を連れ出したということがある。
第一歴代誌16章の中で105篇の8-15節が歌われている。
今週はそこの中がどうなっているのかを見なければならない。
105篇は神様の民になさってくださったことで、106篇は民のやっちゃたことである。
45節は105篇の中で飛び出しているようには見えるが、そこが106篇とつながっている。
ほんとはおきてを守らなければならなかったのに、それをしなかった。それが106篇に書かれている。
42節の頭にキーがある。42節と41節のところをきりたいのに。
1-15節の中を見るときに、やっぱりその中が4つにわかれることは確かである。
四つにわけるときに1-3節、4-7節、8-11節、12-15節のようになるだろう。
8-11節で大切な神様はアブラハムへの契約を覚えておられるというところである。
105篇の中でアブラハムへの契約を覚えておられるということは二回も出てくる。
1-5節までの中に三回みわざということばが出てくる。
だからといって1-5節にするわけではない、5節にはさばきということばがある。さばきは7節にもあることばである。
このときにはみわざということばを中心にしてわけるのではない。
みわざをどうしているのかというところを中心して見て、わけたほうがよい。
しもべということばは105篇の中に4回ある。
直接しもべということばが使われているわけではないが、ヨセフがしもべになったということがある。
ヘブル語でしもべはアブドーということばである。みな同じことばである。
なぜ105篇の中でヨセフとモーセの二人の時代のエジプトについて言わなければならないのか。
最初ヨセフがエジプトに行ったときには民がわずかどころか、ひとりぼっちであった。
ヨセフのストーリーとモーセのストーリーが並行しているように見える。
105篇は成功しているけれども、106篇では失敗している。
106篇のほうも見ればもっと105篇の中での並行がわかってくるかもしれない。
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+審也@カンノファミリー
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