+ちゃんくんです。
構造を考えるときに33節から42節までがすごくこまってしまう。
また、23-27節までの海の話がよくわからない。
33-42節までは2-9節までに並行しているようには見える。
107篇も101ー106篇までのように108篇とつながっているのか。
でも、107篇と108篇は形からしてぜんぜん似ていない。
108篇は57篇と60篇がいっしょになっている詩篇である。
107篇は108篇と似ているというよりかは106篇や105篇の形に似ている。
23-27節までの海の話はマタイにあるキリストがあらしの中で眠っておられたという話と並行しているともいわれる。
43節は1節の「主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。」という言い方の別の言い方である。
33-42節までは前の四つの段落を受けて話していることだと見ることもできる。
33-39節までは荒野についての話をしていて、40-42節までは悩みから高くあげるということについていっている。
1-32節までで神様はイスラエルにこのようにしてくださったということをいっている。
33-43節は1-32節までの歴史を覚えて、どのようなときでもこうしてくださるということをいっている。
107篇には民が荒れになっていることと地が荒野になっているという並行がある。
罪を犯したときに悔い改めるかどうかが大切である。
神様は私たちが罪を犯すことをずっと前から知っておられる。
罪を犯したときに、その罪を認めて、神様に叫ばなければならない。
普通は自分の罪をすぐに認めないで、神様にすぐに叫ばない。
今回の詩篇の構造がキアスマスではないことはわかっている。
前回は17-22節が真ん中でキアスマスになっていると考えていた。
海の話の中で大切なポイントは神の奇しいみわざを見たというところである。
23-32節までは異邦人が苦しみにあっていて、2-9節までは民が苦しみにあっている。
10-16節と17-22節には特に大きな違いはない。
10-16節と17-22節には落とされたのと自分で落ちたという違いがある。
しかし、いっている場所と理由はどちらとも同じである。
イスラエルがエジプトに攻められているのは自分たちが偶像礼拝をしていたからである。
荒野でイスラエルがうずらが欲しいと言ったのは敵が彼らに言わせたからではない。
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+審也@カンノファミリー
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