+ちゃんくんです。
詩篇107篇の43節に似ている言い方を他の詩篇で探しました。
だれができるのかという言い方はヨブ記で神様がヨブに答えて下さるところでたくさん使われる。
「だれが、レビヤタンのような大きなものを創り、支配しているのか。」
15篇では「だれが主の幕屋に住むことができるのでしょか。」
正しく歩み、義を行ない、心の中の真実を語る人。
「その人は、舌をもってそしらず、友人に悪を行なわず、隣人への非難を口にしない。
神に捨てられた人を、その目はさげすみ、主を恐れる者を尊ぶ。損になっても、立てた誓いは変えない。
金を貸しても利息を取らず、罪を犯さない人にそむいて、わいろを取らない。このように行なう人は、決してゆるがされない。」
15篇の1節でまず質問があって、2節から5節まででその答えが言われている。
24篇もすごく15篇の形に似ていて、3節に質問があって、4-6節までにそれに対する答えがある。
質問:「だれが主の山に登りえようか。
だれがその聖なる所に立ちえようか。」
答え:「手がきよく、心がきよらかな者、そのたましいをむなしいことに向けず、欺き誓わなかった人。
その人は主から祝福を受け、その救いの神から義を受ける。
これこそ、神を求める者の一族、あなたの御顔を慕い求める人々、ヤコブである。」
ヨブ記も詩篇19篇も「だれができるのか。それは神様ですということである。」
19篇は「だれが自分の数々のあやまちを悟ることができましょう」という質問である。
詩篇に出てくる他の箇所は全部「だれが神様と比べられましょう」ということである。
イザヤ書にもヨブ記のような質問がたくさんある。
黙示録13章4節が一番最後の箇所である。
竜を拝む者たちが「だれがこの獣と戦うことができよう。だれがこの獣と比べられよう」と言っている。
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+審也@カンノファミリー
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