Subject:
詩篇107篇「水曜日の聖書研究」
From:
"+ShinyaKanno" <shinya@kanno.com>
Date:
2005/11/09 10:18
To:
"saiwainet" <saiwainet@yahoogroups.jp>

+ちゃんくんです。

第五巻は主の恵みに感謝せよというところから始まる。

ということは107篇から恵みの主に感謝するということについて教えられる。
「主に感謝せよ。主はまことにつくしみ深い、その恵みはとこしえまで」と歌っている人が知恵のある者である。
知恵のあるものといったときに、何かうまくやれる人のことを言っているわけではない。

反対にそれとはぜんぜん関係ないということである。
聖書の中で知恵が何かをうまくやれるということについては教えられない。

知恵の定義の一番最初は善と悪の知識の木である。
善と悪を知るということは主の恵みを悟るということと同じである。
偶像礼拝は欲望からである罪である。

アダムとエバもむさぼって善と悪の知識の木の実を取って、食べてしまった。
コロサイ3章5節にむさぼりがそのまま偶像礼拝であると書かれている。
神様が人を創造された目的はハレルヤの民を造ることである。

107篇から始まる第五巻をハレルヤという一つの単語でまとめることができる。
第五巻でずっとハレルヤ、主をほめたたえるということが言われている。
107篇の1節と43節はサンドになっていて、構造を考えるときには別に考えることができるだろう。

1節はハレルヤで、43節の主の恵みを悟ることはアーメンということばにかえることができる。

107篇には二つのきまった言い方がある。このきまった言い方は二つともそれぞれ四回ずつある。
しかし、33-42節までにはこの決まった言い方がない。

「苦しみのときに呼ぶと答える」、「みわざに感謝する」ということは二つで一つのペアである。
6節は連れ出す、13節は救う、19節も救う、28節はまた連れ出すになっている。

第一段落は荒野で、第四段落は荒海である。
第二段落も、第三段落も自分たちの罪のために苦しんでいるということが言われている。

第一段落でも第四段落でもとくには自分たちのために苦しんでいるということはない。
第二段落の10-16節には敵がいて、敵の奴隷となっている。

しかし、第三段落の17-22節には特には敵は出てこないで、自滅している。
これが10-16節と17-22節の違いであるのではないかと見た。

33-42節までには繰り返しの言い方はないが、2-9節の言い方にすごく似ている。
33-42節までを除くと107篇は四つにわかれている。

四つにわけるということは内容としては二つである。
33-42節までも同じように中を二つに分けてることができるのではないか。

もし、33-42節までを二つにわけるのなら、33-39節と40-42節になる。
なぜなら、40節のあたまには接続詞がないから、そこでわけることができる。

33節から39節までは第一と第四段落の内容があって、40-42節までは第二と第三段落の内容がはいっている。
33-39節はアブラハムに与えられた契約の祝福である。
アブラハムへの契約は地を与えることと子孫を増やすことである。

これは105篇と106篇に出てきたテーマである。「神様は契約を覚えて下さる。」

33-39節まではパンをくださいで、40-42節までは罪の赦しである。
パンをくれると罪の赦しというこの二つは主の祈りである。
普通は罪の赦しの方を強調するが、毎日の生活ではパンをくださいと祈る。
しかし、神様は恵み深いので私たちにパンもくれるし、罪も赦し下さる。

病気になったときに罪を赦してくださいと祈るではなく、病気をいやしくださいと祈ってしまう。
福音書で言われているように病気をいやすことと罪を赦すことは同じである。
普通の人はみな病気がいやされなければ満足できない。

ヨブは神様がすべてをなさっていることを知ったら、病気がいやされなくてもだいじょぶである。
ヨブは神様になぜ、こんな小さいものをかまうのですかと訴える。
105篇も106篇も107篇もすごく形が似ている。頭でっかちだったり、おしりがおもかったりする。

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+審也@カンノファミリー
 mailto:shinya@kanno.com
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