+ちゃんくんです。
109篇の中で愛とのろいということばが対比されている。
5節に愛と憎しみということばがあるので、その対比としても見ることができる。
しかし、憎しみといったときにはことばのことをいっている感覚がない。
だから、のろいといったほうがわかりやすいだろう。
シエースルイスののろいの本の中に109篇がはいっている。
ジャンル分けするときには109篇はのろいの詩篇の中にはいる。
のろいの詩篇の一番は137篇である。ここでは最後に幸いなるかなが二回つかわれている。
今学んでいる書物の名前はハレルヤ、賛美、歌という意味である。
先週108篇は誕生で、109篇は十字架と復活、110篇は昇天と座である。
109篇を十字架と復活として考えることはぜんぜん問題ではない。
私たちはある程度は十字架上での苦しみを知っている。
神様は私たちに十字架上での苦しみがどのようなものかを教えてくださっている。
私たちの想像を絶するということは言うことはできるが、ぜんぜん知らないということで言うことはできない。
十字架にかかるときの一番の苦しみは神様は見捨てられたということである。
神様はキリストにあなたは私の愛する子と仰せられたのに、それの反対になっている。
普通は肉体の苦しみが十字架上での一番の苦しみであると考えてしまう。しかしそうではない。
109篇を見るときに大切な節は1節、26節、30節である。
この三つの節を知らなければなぜ、109篇がここにはいっているのかわからない。
109篇の詩人は何かいいことがあったから感謝しますといっているわけではない。
十字架上の苦しみの中で私たちが感謝できるかが神様に問われている。
ヨブがこまっているのは神様が黙っているというところである。
神様が答えてくださることがヨブの苦しみの解決である。
ヨブはあまり神様の答えの内容を求めているわけではない。
詩篇の22篇はキリストの十字架上での苦しみについて歌われている。
しかし、22篇の最後では私は国々の会衆の中で私はあなたに感謝しますと言っている。
22篇と109篇のつながりも見なければならない。
賛美するといったときに、メロディーになっているものを歌うということを言っているわけではない。
だからと言って、詩だけを読むだけではない。
詩を読んでいるだけでおどっているような感じになってくる。
109篇と22篇はつながっている、では108篇と21篇もつながっているのか。
108篇は私の心はゆるぎませんと言っている。21篇で恵みによってゆるぎませんと言っている。
109篇には同じことばの繰り返しがたくさんあるので、構造を考えるときにこまってしまう。
21節の優しくしてくださいということばは直訳ではことをなさるということになっている。
20節の刑罰ということばも直訳ではことをなさるということになっている。
また、28節に主がこれをなされたことを知りますようにという言い方がある。
創世記2章2節に神はすべてのなさったわざを休まれたという言い方がある。
なさったということばは109篇には三回あって、16節、21節、27節である。
20節の刑罰ということばはヘブル語ではなさるということばとは違う。
20節の刑罰ということばは報いということばになっている。
しかし、その報いということばは4節と5節とは違うことばである。
4節と5節に報いということばがあるわけではない。
キリストは十字架上で息を引き取られる前に完了したと言われた。(ヨハネ19:30)
神様は創造するときには黙って造っていない。
ことばによって、大声を出して造った。このことは19篇、29篇を見ればわかる。
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+審也@カンノファミリー
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