+ちゃんくんです。
109篇はジャンルに分けて考えるときにはのろいの詩篇と言われる。
109篇は22篇に似ている。22篇は十字架上での苦しみについて書かれている。
22篇では神様は私を祝福してくださるということについて長く書かれている。
しかし、109篇ではのろいのことについて長く書かれている。
のろいについて一番長く書かれているのは109篇ではないか。
22篇の祈りはあなたはなぜ私を見捨てたのですかというところでは終わっていない。
109篇を考えるときに忘れてはならないところは第五巻のながれの中で見るということである。
109篇では主に感謝するということは30節にしかない。
21節で詩人はあなたの恵みはまことに深いのですからと神様に訴える。
黙示録でハレルヤと言って民が賛美しいてるその内容はサタンがさばかれたということである。
さばくことは大切で、正しくさばくことはすべきことである。
敵をのろうときに敵が救われるように言っているわけではない。
しかし、使徒行伝7章では敵にそしられたときにステパノはののしりかえさなかった。
サタンが救われるようにさばくと言ってしまうのは、自分の側しか見ていないからである。
神様ご自身は罪を忌みきらわれる。しかし神様は私たちの罪を赦して下さる。
私は本物の敵がどのようなものかを知らないのでまちがった考え方をしてしまうということもある。
実際に苦しみがきたときに敵が救われるようになっていってられない。
苦しみの中で喜ぶ人は敵を喜んでいるのではなく、神様からの恵みを喜んでいるのである。
109篇には同じことばがたくさんくり返されているので構造を考えるのがむずかしい。
今回は最終的に1-25節と26-31節の二つにわけることにした。その中はそれぞれ四つにわけることができる。
16節の愛のわざを行うことに心を留めずの行うということばはヘブル語ではなすということばである。
21節の優しくして下さいということばも16節と同じなすということばである。
27節の主がそれをなされたことをということばは16節と21節と同じことばである。
20節の刑罰ということばもなさることということばではあるが、16節、21節、27節とは違うことばである。
悪者どもは正しい者をのろったので、悪者どもは神様にのろわれた。(目には目、歯には歯)
16節、21節、27節のなされたということばは22篇にも出てくる。
22篇に出てくることばはヨハネによる福音書19章30節を連想する。
まず敵にのろわれたときに、神様に感謝してから敵をのろう。
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+審也@カンノファミリー
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