Subject:
詩篇110篇「火曜日の聖書研究」
From:
"+ShinyaKanno" <shinya@kanno.com>
Date:
2005/11/29 10:30
To:
"saiwainet" <saiwainet@yahoogroups.jp>

+ちゃんくんです。

1節の私の主に仰せられたということと4節の主は誓いということは並行している。
3節の戦いの日にと5節の御怒りの日にというのも並行している。

1節の右の座と5節の右にいます主はということも並行している。
1節と2節に敵があって、5節と6節に打ち砕くがある。

昨日の段階では1-3節と4-7節の前半と後半にわけるということになっていた。
1-3節の中を1-2節と3節、4-7節の中は4-6節と7節という分け方もある。
この分け方だと戦いの日と御怒りの日にという並行をむしすることになる。

7節の道のほとりから水を飲むということは士師記のギデオンのストーリーを思い出す。
110篇は士師記のギデオンのストーリーと対比して考えなければならない。

ギデオンは戦いのときに、おびえているものたちは帰れと言った。
またギデオンは水の飲み方から勇者たちとを決めた。
水の飲み方で戦いに行く気があるかを見ることができる。

正しい水の飲み方の人こそ神様に喜んで仕えている。
戦いのときに水は大切なものである。ヨナタンは水がなくて大変であった。
士師記の中にも民がつかれたので、水をほしいといったのに、くれなかったというストーリーがある。(ギデオンの時代)

6節でかしらを打ち砕くというのがある、7節では頭を高くあげるということがある。
王様がどのような心をもって戦いをしていたのかは7節にしか書かれていない。

民がどのような心を持って戦ったのかは3節に書かれている。
祭司と王の働きをばらばらにして考えることはできない。

レビ人は戦いにいったときに、聖なる飾り物をつけていた。(出エジプト記32章)
メルキゼデクは義の王という名前で、サレムの王である。サレム(平和)

110篇はメサイアの詩篇であると言われる。

主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い、その恵みはとこしえまでという言い方はどこにいってしまったのか。
111篇は110篇とはまた雰囲気が違う。111篇は112篇といっしょである。

王様が御座につくときに主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い、その恵みはとこしえまでと歌われる。
メサイアが王座についたということが私たちに対する救いである。

何か私たちにいいことをしてくれたことが私たちへの第一の救いであるわけではない。
AD70年のさばきはメサイアが御座についたことを明白にするものである。

109篇にサタンの右に悪者が立つというのと貧しい者の右に立つというテーマがあった。
108篇には右の手で救うということがある。


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+審也@カンノファミリー
 mailto:shinya@kanno.com
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