+ちゃんくんです。
モーセは小さいときに王女の息子となって、右の座につける約束はあった。
しかし、その約束を捨てて、イスラエルといっしょにエジプトを出た。
右の座につくということは力があってもなくても、王座につく権威があるということである。
ヘブル人への手紙や、福音書で110篇の1節はダビデが言っているということが言われている。
110篇をダビデが書いた詩篇であると見ることはうたがわない。
王様はみんなメサイアのひな型なので、右の座にすわっていたということは言える。
ダビデが右の座に着いていたということを言うと、ソロモンはどうなるのか。
ソロモンだって神様に油注がれて王様となった。
みんな右の座にざしているということは言える。神様がいて、そのしもべとして座についている。
そのようなことを明確にあらわすためにヨセフや、ダニエルのストーリーがある。
バテシェバはソロモンが王様の時代に右にすわっていた。(第一列王記2:19)
ソロモンはすべての帝国を自分の足の下に従わせている。
ソロモン帝国がどっかの帝国の下にいたわけではない。
ヨセフの場合はエジプトという国の中でのリーダーである。
天の御国が来ますようにといったときに、すべての国が教会になるということである。
キリストは弟子たちの中から十二人を選び、彼らに病気をいやし、悪霊を追い出す力を与えられた。
病気をいやすことはキリストの権威を一番よくあらわす奇跡である。
十二人の中でだれが王様の右に座すのかは私たちの知ることではない。
黙示録20章6節で私たちはキリストとともに千年の間王と祭司であると言われている。
サタンは天から落ちる前は神様の右の座について地を支配していた。
右の手で救ってくださいと詩篇の中で神様に叫び求める。
ヤコブの十二人の子供の中にも右の手という名前の意味の人がいる。
ネヘミヤは献酌官で、王様の右に立つ、権威のあるものであった。
110篇の3節の朝露のようだというのは、いっぱいいるということをあらわしている。
7節の道のほとりから水を飲むという言い方は士師記7章のギデオンのストーリーを思い出す。
戦いのときにどこで水を飲むのかは問題をとなる。
サムソンは戦いで勝ったんだけれども、水がなくて死にそうだった。
神様は戦いのときに一番うしろで指示しているだけではなく、先頭にたって戦ってくださる。
ギデオンは民のうちにある偶像をと戦っていた。聖なる戦い。
110篇の中にはたくさん大切なことはあるが、得に1節の主が仰せられた、4節の主が誓ったということを忘れてはならない。
民が喜んで戦っているのは神様が彼らに約束してくださったからである。
メサイアが右の座についたということがハレルヤの内容である。
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+審也@カンノファミリー
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