Subject:
詩篇110篇「木曜日の聖書研究」
From:
"+ShinyaKanno" <shinya@kanno.com>
Date:
2005/12/01 11:03
To:
"saiwainet" <saiwainet@yahoogroups.jp>

+ちゃんくんです。

敵を足代とする、頭を踏み砕くという言い方を聞いたときに創世記3章15節を思い出さなければならない。
6節のかしらが打ち砕かれるということと7節の頭を高くあげるということは並行している。

4節はなぜメルキゼデクのように祭司であると言うのか、王ではないのか。
3節の聖なる飾り物をつけて、喜んで仕えるという言い方は45篇にある。
ゼカリヤ書3章1節でサタンは大祭司ヨシュアを訴えるためにヨシュアの右に立っている。

4節のクロスリファレンスにあるゼカリヤ書はみこころを変えないというところである。

メルキゼデクという名前は創世記に一回と詩篇に一回、ヘブル人への手紙に八回である。
大祭司は大能者の御座の右に立っている。(ヘブル人への手紙8章1節)
110篇は王様ではなく、大祭司について言っている。

110篇の中で行われていることは大祭司のやることであるということになる。
大祭司はきよさを守る役目が与えられていて、王様には正しさを守る役目が与えられている。

きよさと正しさにはどのような違いがあるのか。同じようなてんがある。
サタンが倒されたというときに、悪者が善にかえられたということも言える。
また、汚れたものがきよくなったということも言える。

主は王だという言い方をしたときに、祭司ではないということではない。
109篇は22篇と似ていた、だから110篇と23篇につながりがあるのか。

23篇の6節のいのちの日の限りというのは110篇の4節のみこころを変えないということと並行している。
23篇の2節にいこいの水のほとりに伴われるという言い方がある。110篇の7節と並行している。

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+審也@カンノファミリー
 mailto:shinya@kanno.com
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