Subject:
詩篇110篇「金曜日の聖書研究」
From:
"+ShinyaKanno" <shinya@kanno.com>
Date:
2005/12/02 10:25
To:
"saiwainet" <saiwainet@yahoogroups.jp>

+ちゃんくんです。

110篇は新約聖書の中で一番多く引用されている詩篇である。
メルキゼデクという言い方は旧約聖書には創世記と詩篇にしか出てこない。

メルキゼデクは大祭司でもあり、サレムの王でもある。
キリストはメルキゼデクの位に等しい祭司である。
メルキゼデクは創世記のアブラハムの時代にあらわれて、すぐに消えてしまった。

110篇には多くの繰り返しのことばがあって、並行されていることばがある。

その並行の中でも一番大切なのが、1節の主が仰せられると4節の主は誓うということである。
3節の聖なる飾り物をつけている民と4節の祭司は並行している。
この並行は構造を考える中でも重要な並行である。

今週の詩篇には右という言い方が二回もあるので、右にいるストーリーを見た。
右にいるストーリーを見るときに一番最初に思い出すのが、ヨセフとダニエルのストーリーである。

キリストの聖徒たち、また十二弟子はキリストともに千年の間王様である。(黙示録20章6節)
サタンは天から落とされる前は神様の右にいて、全世界を支配していた。
ゼカリヤ書で大祭司ヨシュアを訴えるためにサタンが右に立っている。

1節の敵を足台とするということは創世記3章15節を思い出さなければならない。
110篇の構造を考えるときに3節と7節はどのような位置づけになっているのかとこまってしまう。

3節も7節も士師記のギデオンのストーリーを思い出さなければならない。
3節の若者は朝露のようだというのは戦う者がいっぱいいるということをあらわしている。

私たちは戦ったことがないのでわからないが、聖書を読めば戦いのときに水は大切なものであることがわかる。

110篇を主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまでという位置づけの中で見なければならない。
実は108篇にも109篇にも右ということばがある。109篇には二回も右ということばがある。
あの有名な110篇と23篇のつながりも見なければならない。

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+審也@カンノファミリー
 mailto:shinya@kanno.com
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