Subject:
詩篇111篇、112篇「火曜日の聖書研究」
From:
"+ShinyaKanno" <shinya@kanno.com>
Date:
2005/12/06 11:01
To:
"saiwainet" <saiwainet@yahoogroups.jp>

+ちゃんくんです。

111篇と112篇をざっと読んでも、この詩篇が双子になっていることはわかる。
この二つの詩篇がアルファベットでなくても双子であることはわかる。
両方ともアルファベットの詩篇になっているので、共通しているところがある。

神様がやってくださったように、私もやるということを111篇と112篇から学ばなければならない。
私たちはいつも神様に愛されて、やってもらっていたということを忘れてはならない。

112篇を読むときにこの人は正しいということが言われているように見える。
しかし、ちゃんと4節に主は情け深く、あわれみ深いということが言われている。

111篇は神様を愛するということで、112篇は隣人を愛するということである。
神様が愛してくださったので、神様を愛する、同じように隣人を愛する。
これが111篇と112篇が隣にある意味である。

心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして主を愛するということは神様がやってくださったことに感謝するということである。
111篇も112篇も「ハレルヤ。主に感謝せよ」という言い方から始まる。

申命記6章の心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして主を愛するということの中で強調されているのはみことばを喜ぶということである。
112篇の1節の幸いなことよの内容はその仰せを大いに喜ぶ人はということになっている。

申命記の律法は義の律法と言われる。その義とは情け深く、あわれみ深いということである。

あなたがたをエジプトの国奴隷の家から連れ出したので、私の命令を守りなさいと言う。
十戒はこの言い方から始まる。(出エジプト記20章2節、申命記5章6節)

主を恐れるということは仰せを大いに喜んでいるかどうかであらわされる。
主を恐れていると言いながら、仰せを大いに喜んでいないということはありえない。

神様は人に教えられると言われたようになってしまう。
神様の計画の場合はそうなるということは含まれている。

詩篇は五つの巻物にわかれていて、その五つはモーセ五書と並行していると言われる。
第五巻の111篇と112篇はモーセ五書の五つめの申命記と並行している。
申命記以外の書物では歴史の中で仰せがはいっている。
しかし、申命記ではモーセは神様に告げられたことを全部いって、その中にちょっと歴史がはいっている。

111篇も112篇も何かの特定の事件をさして言っているわけではない。
111篇と112篇を書いた人は個人的なことを書いたわけではない。
出エジプトのみわざを思い出すが、それだけに特定されるわけではない。

ヨブは神様に主を恐れるもので、このような人は地上にはいないと言われる。
ヨブはこれほどまでも悪い知らせを受けたのに、その心はゆるがなかった。

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+審也@カンノファミリー
 mailto:shinya@kanno.com
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