+ちゃんくんです。
今週は113篇を読むときに、子を産まない女を子を持つ母として喜ばせるという言い方に気がついた。
それで、ハンナの祈りとマリヤの祈りといっしょに考えた。
また、聖書の中の不妊の女はだれだったのかも見た。
113篇にはハレルヤが頭とおしりについている。
113篇のおしりのハレルヤは114篇の頭についていると言う人がいる。
1節の主をほめたたえよと2、3節のほめられよということばはヘブル語では違う。
最初は主の御名をほめたたえよの前半と主の御名の栄光とは何かという後半になっていると考えていた。
しかし、また新しく構造を考えたとき1-4節と5-9節にわけた。
この分け方はみどり本さんも言っていた。
このようにわけたのは1節にも5節の頭にも呼びかけがあるということだからである。
1-4節をまとめるときに、だれが、われらの神、主の民であろうかということになる。
5-9節まではだれが、われらの神、主のようであろうかということになる。
ご自分の民に栄光がなければ、もちろん神様の栄光もない。
私たちに栄光が与えられたということを賛美している者こそ、ほんもののへりくだりをしているということになる。
ただ、一生懸命やるよりも、神様に感謝することのほうが喜ばれる。
悔い改めるということは主に感謝するということである。
詩篇113篇はルカによる福音書2章14節でまとめることができる。
キリストは私たちのために貧しくなって下さった。
普通はキリストが貧しくなられたということだけが強調されてしまう。
神様はそのようなところに目を留めろと言ってはいない。
貧しい者を高くあげてくださる神様であることを喜ばなければならない。
113篇はハンナの祈りを引用して歌ったものである。
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+審也@カンノファミリー
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