+ちゃんくんです。
山々がはねたということは何かのストーリーをあらわしているということではないだろう。
ヨルダン川がさかさに流れるということは聖書の中にストーリーになってある。
海とヨルダン川、山々、丘は東西南北をあらわしているということも考えられる。
このいわれている順番が歴史順にはなっていない。
7節の地は全地の地のことをいっているのではなく、天地の地のことをいっているのであろう。
8節の堅い石ということばはゆるがない岩ということをあらわしているのではない。
このことは不妊の女のストーリーを連想する。
堅い石とは実を結ばない岩ということである。
荒野が水が出る場所になったということのような感じである。
岩から水でるというときに民数記20章のメリバの水を思い出さなければならない。
3-4節と5-6節の中で連れ出すということが強調されている。
海、川、山々、丘は神様にさばかれたということである。
エジプトが岩で、イスラエルが水であるという考え方よりも、イスラエルが岩で、連れ出されてそれから水がでるようになったということのほうがいいだろう。
114篇の山々と丘がはねるということばはダビデ、契約の箱が戻ってきたときに踊ったということばと同じである。
1節でなぜ、ヤコブの家という言い方を使うのか。ヤコブがといえばよいのに。
エジプトのことを異なることばの民という言い方でいう。
異なることばというときに、バベルの塔、使徒行伝2章を思い出す。
しかし、114篇でしか、この異なることばという言い方は使われていない。
114篇と115篇がつながっているということはないのか。
29篇と114篇は似ているように見えるので、ここのつながりも見なければならない。
29篇は大洪水のときで、114篇は出エジプトの時と考えられるのではないか。
水が岩から出るということについてもまとめておかなければならない。
異なることばの民ということについても見なければならない。
また、今日の通読の箇所であった第二列王記1-5章とも見なければならない。
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