+ちゃんくんです。
神様は78篇と114篇をいっしょに見るように導いてくださった。
実は今日の通読の箇所が詩篇78篇であった。
78篇には神様がイスラエルがエジプトにいたときに行ってくださったみわざについて書かれている。
海、川、山々、丘ということばを見るときに、エデンの園を連想する。
エデンの園からは四つの川が流れていた。
3-6節の中でありえないことが起きている。
ありえないこととは神様の不思議なみわざという言い方で言いかえることができる。
ヨルダン川は下るという名前の意味なのに、ここでは川が反対に上っている。
1-2節は主はみわざによって聖なる民をつくられたということになる。
7-8節は主はみわざによってご自分を聖なるものと示されたということになる。
ここは神、民の関係になっている。これは民数記20章12-13節から言える。
78篇では神様のなされた奇しいわざを忘れてはならないということについていわれている。
それは神様に信頼し、契約を守るためである。
しかし、先祖たちは神様の奇しいみわざを忘れたということもいわれている。
岩から水を出すということは神様を信じるかどうかがすごくよくためされる。
その試験にモーセは失敗してしまい、約束の地へ入ることができなくなった。
良い牧者は羊に水を飲ませてくれる。神様はそのようなお方である。
詩篇114篇よりも、詩篇78篇のクロスリファレスのほうが大切な箇所がある。
その中で、第一コリント人への手紙10章4節を読まなければならない。
第一コリント人への手紙10章7節で民はすわっては飲み食いし、立っては踊ったという箇所が引用されている。
モーセが十戒をもらいにシナイ山にのぼったときに、民は試練にあった。
そ試練に民は失敗して、むさぼり、偶像礼拝をしてしまった。偶像礼拝は姦淫の罪である。
モーセは神様に命じたとおりに行わなかったので、忠実ではないといわれる。
岩から水が出るストーリーは二回しか記されてはいないが、他にも何回もあったのだろう。
忠実の反対はむさぼり、偶像礼拝、姦淫である。
水についてはとくに書かれていないが、マナは毎日ふっていた。
マナが毎日ふるように、水も同じようにずっとあったのだろう。
神様はイスラエルが悪かったからといって、マナの量を減らしたりはしなかった。
イスラエルは水は出せたが、パンは出せないだろうという。
114篇から神様の不思議なみわざについて教えられる。
ハレルヤ、聖なる民、聖なる神、不思議なみわざということばを一言でまとめるとアーメンになる。
神様はこまらせて、イスラエルに教えようとしているのではない。
神様に信頼するように、エジプトから連れ出されたときに、前に海がある。
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