Subject:
詩篇115篇「火曜日の聖書研究」
From:
"+ShinyaKanno" <shinya@kanno.com>
Date:
2005/12/27 11:17
To:
"saiwainet" <saiwainet@yahoogroups.jp>

+ちゃんくんです。

14節のふやしてくださるようにということばはヨセフである。ヨセフは加えるという名前の意味である。
115篇の1節と17節はできないということばで並行している。

3節と8節にはすべてということばがある。3節はことごとくのことで、8節はみなのことである。
1節の栄光をの前にキーがある。「なぜなら、栄光をただあなたの御名にのみ帰してください。」
1節の恵みの上に、まことの上にと14節の子孫の上にというのが並行しているのか。

天ということばはヘブル語ではシャマイムということばである。
シャマイムという言い方はマイム(水)ということばと並行しているのか。

ただ、音が同じだけであっても、音が同じなので、何か連想するようになっている。
今考えたつながりを尊重して構造を考えるとなるとどのようなつながりになるのか。

8節の偶像に信頼することと、9節以降の主に信頼することはあきらかに並行している。
115篇の内容は135篇に似ている。これは一つの手がかりとなる。
135篇にも主は天におられ、望むことをことごとく行われるという言い方がある。

1節と17-18節の並行は大切で、構造を考えるときにむししてはならない。
9-11節と12節からは形としても、内容としても並行している。

3節のその望むところについては12-16節に書かれている。

1節ではいろいろなことをいってはいるが、ハレルヤという一言でまとめることができる。
偶像に信頼するものはその偶像のようなものとなる。

神様に信頼するものは神様のようになることができるということを言っている。
115篇では死人は主をほめたたえることはないということが言われている。
しかし、116篇では死の状態にあっても神様をほめたたえていたので、救われましたということがある。

イザヤ書38章18節でヒゼキヤは死人は主をほめたたえることはないと主に祈る。

115篇の1節を引用して言う。その言っていることはまちがっていない。
しかし、115篇の中でこのことを言いたいのかということが今週の問いである。
ただ、あなたの御名にのみという強調はない。キーをのみということばに訳した。

神様だけに栄光があるように、私たちにはいりませんということはいっていない。
だからといって、何か私たちがやったということでもない。

イスラエルとユダが、バビロンに捕囚として連れて行かれたのは、私たちが良かったからではない。
自分たちからそこに行くようにした。民は偶像礼拝をして、神様の怒りを招いた。
エゼキエル書36章22節で、あなたがたを連れ出すのは、主の聖なる御名のためだと言われている。

2節にはもともとはかぎかっこはない。これは翻訳する人のかってである。
バビロンにいたイスラエルも、エジプトにいたイスラエルも私たちの神は天にいるということを言っていた。
3節のようなことは言うが、やっていることは4節からの偶像礼拝である。これぞ偽善者である。

イザヤ書48章11節のところで、主のためにということが何回も言われている。
114篇と115篇は一つになっていて、116篇が二つにわかれているということが言われる。
115篇が一つなのかは分析していかないとわからない。

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+審也@カンノファミリー
 mailto:shinya@kanno.com
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