+ちゃんくんです。
詩篇115篇から栄光についてどのようなことが教えられるのか。
イザヤ書48章11節のためと115篇のためということばは同じである。
1節のただあなたの御名にのみという言い方はない。
キーは日本語に訳されるときに、まことにとか、そのような強調することばに訳する。
キーというのはなぜならという接続詞である。
1節はのみということでもないし、こそでもない。
救いの理由は人にはないということをここで言おうとしている。
このことはエゼキエル20章9節、14節、22節、44節と36章22節、32節で言われている。
自分自身に栄光ではなく、神様だけに栄光ということで引用される。
でも、115篇の中での位置づけを考えて読むとそうではないということがわかる。
私たちにではないということのかわりに、恵みの上に、まことの上にというのがある。
偶像は何もできないというのと、死人はほめたたえられないというのが並行している。
前までは1節と17-18節までが並行していると考えていた。
そうすると、昨日とは構造の考え方がかわってくるだろう。
イザヤ書48章24節に先週見た、岩からの水について言われている。
神様の聖なる名が汚されているので、私たちを助けてくださいということを祈る。
私たちが恵まれ、あわれまれるように、助けてくださいと祈っているわけではない。
さばきが成されるのを求めているのは、私たちがごはんを食べられるようになるためではない。
神様の名が汚されているときに、国々はおまえの神はどこにいるのかと責めてくる。
偶像を造るものと、それに信頼するものは偶像と同じである。
それに対して、主に信頼するものはみなこれと同じになれる。
金や銀で造られたくさった顔から、本物の金の動くことのできる顔になる。
黙示録1章13節でキリストは頭から、足まで金ぴかであるということが言われている。
本物の金と腐った金には間がない。腐った金が洗いきよめられたら、本物の金に変えられる。
国々の民は神様を神々の中の一つのものと考えている。
このことはイザヤ書10章11節でわかる。(彼はこう思っている。「....」)
第二列王記19章、第二歴代誌32章で、アッシリヤの王セナケリブはイスラエルの神様をばかにする。
神様の民がだめにされることによって、神様の名が汚されてしまう。
神様の恵みとまことというのは大切なことである。
恵みとまこととは神様が言われたとおりのことがなされるということである。
聖書にこのようなことをすれば、祝福されますということが書かれている。
115篇の中で主の御名をほめたたえることが大切であると言われている。
神様への賛美よりも尊いささげものはないと書かれている。
神様の栄光をあらわし、神様を永遠に喜ぶということが、人の創造された目的である。
神様は人が主を賛美することを喜ばれる。
だから、死人は主をほめたたえることはできないということが条件となっている。
1節は負けているときに歌うものである。
シェークスピアは戦いで勝ったときに1節を引用して歌った。
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